EX=Gene

 

 「二年目の誕生日」

               ――Rebirth――

Act.7:「 The Hero


『フローラ』達が出発した後、奇妙な静けさが部屋の中を支配した。
イワンさんはソファーに座りながら、『フローラ』達が出て行ったドアをじっと見ていた。
私は始めてこの部屋に来た時の青年の『外装』を纏いながら、彼の考えを推し量ろうとしていた。

『フローラ』は私の事をどこまでイワンさんに話したのだろうか?
彼は私が一人の政治家を挟んで財団と敵対していた組織の人間だと知っているのだろうか?
もし知っているのなら、私と二人きりで一つの部屋の中にいるのに何故こんなに平然としていられるのだろう?

老人の考えが分からないまま、疑問だけが次々に頭に浮ぶ。
何とか感情のかけらでも読み取ろうと口髭を生やした唇に注目した瞬間、イワンさんが突然口を開いた。

「それにしても驚いた」
「驚いたって、何がですか?」
「ああ、あの『リッパー』と言う青年の事だよ……」

この時になるとイワンさんは私に対して大分打ち解けた言葉を使うようになっていた。
私がそうするようにお願いしたからだ。
やはり四十歳以上も年上の人物に『プリーズ』を連発されるのはなんだか落ち着かないのだ。

「さっき、彼は突然別人のように変わった。私も少しは人を見る目があると自負していたのだが、全く気付かなかったよ。あれが彼の本当の姿なのかね?」

イワンさんの疑問はもっともだ。
始めて『リッパー』の豹変に立ち会った人間は誰でもかなり戸惑う。
特にイワンさんや私のように日頃、駆け引きに身を浸している者ほど彼が実は物凄い爪を隠した猛禽なんじゃないかと余計な勘繰りをしてしまう。
でも、『リッパー』は決して無能の振りをしているわけではないし、二重人格と言うわけでもない。
あのスズメのようなヘタレ振りも、イヌワシのような鋭利さも同じ人間の違う一面に過ぎないのだ。

『リッパー』の精神は例えるなら出力は大きいが、温まるのに時間がかかる馬鹿でかいエンジンのようなものだ。
発動機に火が入らない内はひたすら頼りないが、一端動き出すと誰にも止められないようなパワーを発揮する。
一度決を下した『リッパー』の考えを変えさせるのは、何十年も修行を積んだ高僧を改宗させるのと同じぐらい難しい。
以上の内容の事に私なりに分かりやすくイワンさんに説明してみた。
すると老人は納得したように何度も頷き、

「なるほど……『フローラ』くんがあの青年をパートナーに選んだと聞いた時は意外に思ったものだが、やはりちゃんとした理由があったのだな。私は合衆国にいた頃、彼女に何度かボーイフレンドを紹介した事があったのだ。その中には私の息子もいた。親の欲目かもしれないが、私には二人がお似合いのカップルに見えた。でも、二人が友人以上の関係になる事はなかった。やっぱり彼女の好みに合わなかったのだろうねぇ……」

私はイワンさんの話をもっとよく聞こうと、三ミリほど前に身を乗り出した。
『フローラ』のゴシップを聞ける機会なんて滅多にある事じゃない。
あの魔女の弱みを握るチャンスを逃す手はないのだ!

「イワンさんはその……どう言うきっかけで『フローラ』と知り合ったのですか?」
「知りたいかね? しかし、その話をするためにはまず君が彼女についてどれぐらい知っているか教えてもらう必要があるね」

逸る本心を隠して冷静に聞いたつもりだった。
しかし、イワンさんにはお見通しだったらしい。
宝石のように輝く目がじっと私の方をみつめている。
やっぱり、この人相手に嘘をつくのはかなり難しいみたいだ。
ここは正直に話すのが得策だろう。

「そうですね……。彼女が実は日本の出身者だった事。でも、子供の頃誰かに命を狙われて、その追跡を撒くためにアメリカに渡った事。それからずっとアメリカで暮らしていたけど、EXGeneの流行を切っ掛けに日本に帰ってきた事ぐらいしか知りませんね」

これは全部、『フローラ』が私の身の上話を聞いた時に話してくれた事だ。
だが、あの女は天性の嘘つきなのでどこまで本当の事か分かったものじゃない。
それなのにイワンさんはまるで私がキリストの生まれ変わりだと告白したみたいに目を見開いた。

「今日は驚きの連続だな。合衆国にいた頃、『フローラ』くんが本当の過去を話した人間は私を除いて一人もいなかったのに」
「え、今の話、全部本当だったんですか!?」
「ああ、まさか、そこまで教えているとは思わなかった。ひょっとしたら君はよっぽど彼女に気に入られているのかもしれないね」

思わず、げえっ!と声をあげてしまった。
下品だと分かってはいるが、これは仕方がない。
だって、『フローラ』のお気に入りなんて「げえ!」以外の何者でもないじゃないか!

「ははは、『オーロラ』くんはあまり彼女の事が好きじゃないようだな。まあ、無理もない。『フローラ』くんは親しい人間以外にはかなり気難しい性格をしているからね。私も仲良くなるまでちょっと苦労させられたよ」

まるで自分の子供の話でもしているかのように鷹揚に笑うイワンさん。
正直、あなたのその器の大きさが羨ましいです。
私なんかあの魔女との短くも刺激たっぷりな日々を思うと笑うどころか、涙がこみ上げてくるというのに……。

「しかし、そうだな。これは良い機会なのかもしれないね。私は兼ねてから『フローラ』くんは彼女の事をよく知る友人をもっと持つべきだと思っていた。今から聞く事を誰にも話さないと約束してくれるなら、少し彼女と私が出会った時の話をしてあげよう」
「誰にも話しません。お約束いたします!」

もちろん、誰にも話すもんですか!
必要がない限りは!
情報や弱みと言うものは知っているものが少なければ少ないほど価値が上がる。
自分が持っているお宝の希少価値を下げるほど私は馬鹿じゃないのだ。
イワンさんは口髭を撫でてしばし黙考し、それからゆっくりと語り始めた。

―――今から二十年近く前に私は彼女父君とまず知り合い。彼を通して『フローラ』くんに出会った。どうか驚きと偏見を持たずに聞いて欲しいのだが、『フローラ』くんの父君は俗に極道或いはヤクザと呼ばれるジャパンマフィアの一員であり、ファミリーのサブリーダーだった。そして、『フローラ』くんの母君はファミリーのドンの娘だったのだよ」

別に驚くほどの事じゃないと思った。
私は常々、あの魔女の親は嘘つきか人殺しか泥棒しかいないと思っていた。
そして今回、私の予測が全て当たっていた事がわかったと言うわけだ。
私の中に縫い傷だらけの怪物に扮したボリス・カーロフが『フローラ』の父親のイメージとして立ち上がった。
きっとジャパンマフィアの習慣として指が二、三本なくなっているに違いない。

「君は今、『フローラ』くんの父君にどんなイメージを抱いたのか大体分かるよ。多分、傷だらけで指が何本か足りない大男を想像したのだろう? ははぁ、図星のようだね。傷だらけだったと言うのは当たっているよ。背が高いというのもね。しかし、彼はフランケンシュタインの怪物のような男じゃなかった。むしろ、かなりハンサムな類に入る美丈夫だった。強靭な肉体と優れた知性を持っていたが、非常に謙虚な性格をしていた男性だった。極道の言う侠客、ジャパンヒーローとは彼のような人物のことを言うのだろう。そしてそのような人間には珍しい事に優れたユーモア感覚の持ち主でもあった」

なんですか、その完璧超人は?
あ、でも『フローラ』はあの極悪な性格を除けば天才的に頭が良いし、顔もかなり良い。
子供が必ず親に似るとは限らないし、彼女の父親が人格者でも別に不思議じゃないかも。
とりあえず、私は自分の中にあった『フローラ』の父親像をボリス・カーロフから若い頃のジャン・クロード・ヴァンダムに取り替える事にした。

「父君はごく普通の中産階級の出身だったと聞いている。幼少期の不幸のために両親を亡くしたが、親族の援助と本人の努力のお陰で日本の最高学府の一つ、京都大学に入学した。優秀な生徒だったらしいが、級友のために敢えて罪に手を染め、学業半ばで大学を中退した。しかし大学を辞めても彼の人柄を慕うものは多かった。その一人の推薦で彼は大手の建設会社に入社した。その会社で出会った同僚が後に『フローラ』くんの母君になる女性だった。二人は互いを一目見た時から磁石のように魅かれ合い、やがて結ばれ伴侶となった」
「なんだか全然ヤクザと関係のない人に聞こえますね……」
「そのとおり。『フローラ』くんを身籠もるまで、ご夫婦は母君の実家と全く関係のない生活を送っていた。『フローラ』くんの祖父殿は娘に裏社会と関わりのない幸せな生活を送って欲しいと望んでいた。若い頃、人には自慢できない職業のせいで娘に苦労をかけた事を気にかけていたのだ。マフィアのドンには良くある事だ。私も……」

一瞬、イワンさんは口を閉ざして絨毯を凝視した。
人間は過去に起きた事を思い出している時に視線を下に向けるという。
イワンさんは普段、こういう表情の変化を上手く押さえ込んでいる。
しかし、この時は思い出した事がよっぽど印象深かったのか、つい本心を覗かせてしまったようだ。

「……私も彼の立場だったら、同じ事をしただろう。だが、彼の望みは悲劇的な形で破られてしまう。娘が妊娠したと解った時に、敵対していたファミリーとの大きな抗争が起きたのだ。母君の兄であったファミリーの後継ぎは、敵の不意討ちを受けて亡くなってしまった。敵はさらにドンの娘を攫って、ファミリーの命脈を絶ち、結束を破壊しようとした。彼らに油断はなかった。襲撃には念入りに計画を立て、実行部隊には我慢強くトレーニングを繰り返したプロが使われた。しかし、一つだけ予測不可能な出来事が起きた。その場に居合わせた一般人であるはずの娘婿がプロの襲撃部隊を全員返り討ちにしたのだ! 父君は襲い掛かってきた襲撃部隊を再起不能にすると、彼らを連れて妻の実家に帰り、そこでファミリーに入ることを宣言した。祖父殿も始めは反対していたが、最後は娘婿の要求を受け入れるしかなかった。長男をはじめとする武闘派を亡くしたせいで、ファミリーの人材不足は深刻なレベルに達していた。そして、婿殿の圧倒的な『力』は誰の目にも明らかだった。ファミリーに入って僅か半年の間に、『フローラ』くんの父君はその武力、知力、人脈力を駆使して、敗北必至と思われていた抗争を双方の和睦まで運んだ。しかも、自分たちにとても有利な条件までつけて。敵にとっては正に悪夢だったろうね。何年もかけて計画を立て、八割方勝っていた抗争がたった一人の男のせいで全部ひっくり返されたのだから」
「……まるで、アレキサンダー大王かカエサル皇帝みたいな人だ」

日本なら、織田信長と言ったところかな?
一人で戦局をひっくり返した実績で言うなら源義経?
どっちにしてもただ暴力を振り回すような普通のマフィアとは次元の違う人物のようだ。
私は自分の中のイメージからヴァンダムを外して、アーノルド・シュワルツネッガーの顔を据えた。
うん、あのカリフォルニア州知事ならマフィアのファミリーの一つや二つは簡単に壊滅できそうだ。

「そして、ファミリーは長い時間をかけて抗争でできた経済的、人的なダメージを回復させていった。『フローラ』くんの父君はその過程でますます組織の中の影響力を増していき、ついにドンの後継ぎの座に納まる事になった。私と父君が出会ったのはちょうどその頃だった。切っ掛けは正直言ってあまり良いものではなかった。その時、父君が表の顔として働いていた建設会社(実はファミリーのフロント企業の一つだった)と私の財団が取引を持つ事になった。大きなプロジェクトで、成功すれば天文学的な利益が上がるはずだった。とある理由により、当時の金額で五十億円の報酬が現金で支払われる事になった。ところがその現金輸送車が襲われ、莫大な金額が盗まれてしまった! 建設会社側は報酬の支払いを要求したが、財団の極東支部はこれをはねつけた。建設会社の裏にいるファミリーが強盗の真犯人で、報酬の二重取りを狙っていると思ったからだ。二つの組織の間で緊張感は高まり、抗争はもはや必至と思われた。組織の大きさ、財力、武力とも我が財団の方が圧倒的上だった。一端抗争が始まればファミリーの命運はもはや風前の灯火だと思われた」
「もう日本の出来事には聞こえません。まるでハリウッド映画のシナリオを聞かされているみたいです」
「ははは、あの頃私も財団もが若かったからね。荒っぽくて短絡的な方向に流されやすい傾向があったのだ。とにかく、我が極東支部は大規模な抗争に備えて装備や人員を本社に集めていた。短機関銃とか手榴弾とか、そういう類いのものをね。そこへ『フローラ』くんの父君が一人で乗り込んで来た。その時、彼の来訪を知らせた報告は今でも私達の間で伝説になっている。本社ビルに潜入した父君に気付いたガードマンは叫んだのさ。『助けてくれ! マイケル・ジャクソンが攻めて来た!』とね!」
「何故、マイケルがっ!!!」
「それは彼がダンスパーティに参加するような糊のきいたスーツにシルクハット帽、ピカピカの革靴で乗り込んで来たからさ。加えて、『フローラ』くんの父君は古武術の使い手でもあった。古武術と言っても伝統的な技だけではなく、銃器などの武器にも対応した真の意味のキーリング・アーツだ。それこそ、父君が新妻と我が子を襲撃者達から守り抜いた武器だった。私自身、似たような技術の使い手だから分かるのだが、無駄のない武術の達人の動きはダンスのように優雅に見える事がある。素手で踊るように同僚たちを薙ぎ倒す彼を見て、警備員はあの有名な踊り手を連想したんだろうね」
「む、無茶苦茶な! サブマシンガンや手榴弾で武装した敵拠点に一人で、しかも素手で突入するなんて……」
「ところがこれが実に良く考えられた方法だったのだよ。ざっと思いつくだけでも三つぐらいメリットがある。まず、第一に怪しまれない事。当時、極東支部は来る抗争に備えて本社だけではなく、その周辺にも限界な警戒網を敷いていた。しかし、見るからに怪しげな格好で近づいたおかげで、父君は逆に怪しまれる事なく本社ビルの入り口まで辿り着く事ができた。不意討ちをかけるなら目立たない格好で来るという思い込みを利用したのだ。それから、これは君も経験があると思うのだが、人間は武器を持たない無防備な人間を撃つのは抵抗を感じるものだ。針鼠のように武装するよりも、素手の方が安全な場合もある。そして、最後のメリットだが……これを聞く前に一つ質問をさせてもらえるかね?」
「ええ、どうぞ。構いませんが」
「では、『オーロラ』くん。もし、君が敵の襲撃から拠点を守る事を命じられた時、スパイらしき男が一人で何も持たずに陣地の中に入ってきたらどうするかね?」
「それはもちろん、戦闘力を奪い取った後に身柄を確保して尋問を……あっ!!」

私は口に手を当てて、驚きの声を漏らした。
その様子を見ていたイワンさんは手を叩いて笑った。

「そう! そのとおりだ! 軍人としては模範回答だろう。だが、それこそ父君の狙いだったのだよ。素人なら弾みで引き金を引く事もあるかもしれない。しかし、訓練を受けた軍人は後で尋問するために相手を殺しかねない銃は使わない。そして、一端格闘が始まれば同士討ちを避けるために短機関銃のような強力な武器はますます使いづらくなる。もちろん、拠点内に敵が潜入した時点で手榴弾を使うのは論外だ。もし、父君が日本刀やトカレフで武装した仲間達と一緒に乗り込んできたのならば、私の優秀な部下達は彼らがビルのドアを叩く前に全滅させただろう。だが、単独かつ非武装で潜入したおかげで彼は警戒網を一気に乗り越え、本社ビルの奥にある局長室まで辿り着く事ができた。敵基地に一人で乗り込み、その首魁に迫る。同じような事ができる人間は、この私を含めて世界中に何人もいるだろう。しかし、あの時父君がやったように鮮やかに、しかも華やかにやってのけた例は今日に至るまで聞いた事もない!!」

イワンさんは実に楽しげに自分達を出し抜いた男の話をしていた。
私は(もちろん整形前の)マイケル・ジャクソンが屈強な警備員達をムーンウォークしながら蹴散らす様子を想像するのでいっぱいいっぱいだった。

くっ、『フローラ』め!
なんて遺伝子を引きついているんだ!
あいつの弱みを探るためにイワンさんの話を聞いていたはずなのに、どんどん勝てる気がしなくなってきたぞ!

「そ、それで、その話のどこにイワンさんが出てくるんですか?」
「ああ、そうだったね。すまない。私も年を取ったものだ。ついつい話が長くなってしまった。あ、さて……局長室に辿り着いた父君は極東支部の最高責任者を追い詰めた。その場に居合わせたのがこの私と言うわけだ。ちょうど強盗事件の詳しい話を聞くために日本に来ていたのだ。私が局長より上の人間だとわかると、父君はいきなりスーツを脱ぎ捨て、私の前に座り込んで言った。『あんたらの報酬を守れなかったのはわしらの責任じゃ。それはついては詫びるし、欲しければわしの首もやる。けど、輸送車を襲撃したのはうちの仕業じゃない。だから、報酬の五十億円だけは払ってくれ』とね」
「……そんな強引な謝罪聞いた事もないです」
「私もだよ。そして、その場にいた全員が困惑した。彼が建設会社の取締役でファミリーのNo2だと言う事は既に調べがついていた。特殊警防とスタンガンで武装した警備員達を子供扱いしたその手腕からしておそらく本物だろうと言う事もわかっていた。しかし、彼の意図がまるで理解できなかったのだ。そこでさらに詳しく話を聞くと、今回の襲撃事件は彼の弟分が輸送車のルートを恋人に漏らしてしまったために起きたらしい事が分かった。『兄弟には既にケジメをつけさせた。だけど、あいつを輸送車の護衛に指名したのはわしじゃ。だから、わしが責任を取りに来た』と彼は言った。私は内心、天晴れなサムライ魂だと思ったが、それで黙って報酬を渡すわけにもいかなかった。彼が嘘をついている可能性も有るし、五十億と言うのは財団にとっても笑って済ませる金額ではない」

私はあんぐりと口を開けながら、イワンさんの話を聞いていた。
もうスケールが大きすぎて、頭がついていけない。
既に襲撃事件で五十億失われている。
その上、さらに五十億の報酬を『フローラ』の父親は要求したのだ。
合計、なななななんと百億!
大リーグの松坂の身代金でもこんな金額は無理だと思う!

「そこで私は少し古臭いが、馴染み深い方法で彼の誠実さを試す事にした」
「……何をやったんですか?」

もう次にどんな答えが返ってくるのか大体分かっていながら、私は聞いた。

「決闘だよ! ちょうど本社ビルのレクリエーション・ルームにボクシングリングがあってね。そこで即席の格闘試合を行ったのだ。時間無制限、武器の使用と目と睾丸への攻撃以外は何でもありのルールで彼と戦ってみたのだよ」

……どうして男の人ってこう言う野蛮なイベントが大好きなんだろ?
まあ、ここで皮膚を艶々させながら語っているお爺ちゃんを見れば勝利の女神がどちらに微笑んだのかは―――

「そして、勝ったのは父君の方だった」
ええ―――!!!
「いや、正確的に言えば私は試合に勝ったが、彼は勝負に勝ったのだよ。決闘が終った後、もはやその場にいる人間で彼の誠実さを疑うものは一人もいなかった。あの襲撃事件で怪我人が出ていたが、それも問題にならなかった。誰が見ても父君が彼らより酷い目に会っていたのは確実だった。自分でやっておいてこう言うのもなんだが、あの時の彼は二回車に跳ねられて、二回挽かれたような有様になっていたからね」
「い、一体、『フローラ』のお父さんに何をしたんですか、イワンさん!!」
「そりゃ、普通に殴ったり蹴ったり、投げたり極めたり……まあ、大抵の人間は私が殴った辺りで死ぬから、彼ほど長く持ちこたえた普通人は他にはいなかったがね。その決闘を行うまで、私にとって格闘で戦った一番手ごわい相手はシロクマだったが、彼は見事に世界最大の肉食獣からその栄冠を奪い取ったのだよ」
「熊殺しって、意外とたくさんいるものなんですねぇ……」
「もちろん、肉体的なタフネスや筋力じゃ人間はシロクマの敵ではないさ。しかし、彼には野生をも凌ぐスピリットとテクニックがあったのだ。決闘が終った後、私はすぐに襲撃事件に関する調査をやり直させた。間もなく事件が局長の席を狙った内部のものの犯行である事が分かった。私は自分達の非を父君に詫び、滞っていた報酬を即座に全額振り込んだ。彼は私の謝罪を受け入れて、私達は良きビジネスパートナーになった。そして、彼を家に送り届けた時に私は始めて子供の頃の『フローラ』くんに出会ったのだ」
「『フローラ』ってどんな子供だったんですか?」
「小さな女の子だったね。今でも背が高いとはいえないが、その頃は本当に小さな子だったよ。顔の半分が隠れるような分厚いレンズの眼鏡をかけていた。それから……」
「へえ、子供の頃の『フローラ』って意外に普通―――
「出会い頭にいきなり私を殺そうとしたね」


―――
じゃなかった 

やはり、アヒルの子がハゲタカになったりする事はないのか!
サソリの星座に生まれた女は一生サソリ座なんだ!
それにしても初対面でいきなり殺しにかかるってどんなホラー映画の住人だよ!

「まあまあ、落ち着きなさい。発掘したばかりのミイラみたいになった父親を抱えた大男が家に入ったのだ。あの子が少し緊張していたのも無理はない話さ。それにしても、あの時の彼女の手際は鮮やかだったね。まず玄関に飾ってあった壷をいきなり投げつけて目くらましに使うと、その壷の欠片で正確に私の頚動脈を狙ってきたんだ。あの素早さ、迷いの無さはまさに天稟以外の何者でもなかったよ」

イワンさんは一端、話を止めてお茶を飲んだ。
私はぐったりとソファーにもたれ掛かった。
つ、疲れたぁ……。
話を聞いているだけでもうへとへとに疲れた。
今の話に出てきた人達は本当に私と同じ地球の住人なのだろうか?
殺伐の星から、殺伐を広めに来たエイリアンなんじゃないかと思えてきたよ。

「紆余曲折はあったが、それを切っ掛けに私は『フローラ』くんの父君に対して息子のように接するようになった。彼も私を『イワンのおやじ』と呼ぶようになった。私達は二年間、家族ぐるみの付き合いを続けていた。だが、ある日悲劇的な事件が起こり、父君は世を去った。さて、『オーロラ』くん何が起きたと思う?」
「……仲間の裏切りですか?」
「そうだ。英雄は常に裏切りで死ぬ。その点、稀代の侠客であった彼も例外ではなかった。そして悲しい事に父君を裏切り、死に至らしめた犯人こそあの襲撃事件で彼が命をかけて救った義兄弟だったのだ

耳元で雷が直撃したようなショックが私の身体を走った。
今までヴァンダム、シュワルツェネッガー、マイケルと目まぐるしく変わっていた『フローラ』の父親のイメージが私のお父さんと重なった。
信じられない事に……。
まったく信じられない事に私はこの時、始めて『フローラ』の気持ちを理解したのだ。

恐らく、彼女にとって父親こそ世界の中心だったのだろう。
かつては彼女も父のように明るく、強く、何よりも公明正大な人物になりたいと望んでいたはずだ。
だけど、彼女の父は死んだ。
彼が正しいと信じて行ったその事のために殺された。
その瞬間、幼い少女の中で全ての価値観がひっくり返ったはずだ。

『フローラ』の秘密主義。
なりふり構わないマキャベリズム。
仲間に嘘をついて恥じない魔女のような狡猾さ。
私がずっと嫌っていた彼女の性格は全て理想の父親像の裏返しだったのか……。

「何か感じ入るところがあったようだね」
「はい、どうやら思っていた以上に『フローラ』と私の間には共通点があったようです」

一年前、このホテルのロビーで『イクステンデット』のお披露目が行われた。
雇い主を探す能力者と異能の力を求める人間達。
誰も彼もドレスやスーツ、タキシードで着飾っていた。
元の色もわからないほど汚れた衣服を着た私達はまるで浮浪者のように見えた。

私は目立つ事を恐れて、本来の一割程度の力しか使う事ができなかった。
『レインボー』の能力は最初から誰にも相手にされなかった。
一人、また一人と雇い主達が私たちの前を通り過ぎていった。
一人、また一人と新しい就職先を見つけた仲間が歓声を上げた。
そして、最後に彼女が私の前に立った。
あのパーティで最も華やかで美しかった『フローラ』が。

当時全く理解できなかった『フローラ』の気持ちが少しだけわかる気がした。
多分、彼女はその鋭敏過ぎる嗅覚で嗅ぎつけたのだろう。
私と妹から漂う同類の匂いを……。
イワンさんが黙祷するように目を瞑ってからまた語り始めた。

「死に臨んでも父君はなお英雄だった。彼は罠を食い破り、妻子を守るために家に戻り、そこで息を引き取った。彼の妻は(気丈な事に少し取り乱さずに)夫の遺体を車に載せるとすぐさま家を離れた。その後何度も名前や戸籍を変えながら、最後に私の下へ身を寄せた。彼の死を知った時、私はすぐに薄汚い裏切り者の首をねじ切りに行こうとした。だが、お母上が私を引きとめた。そして、彼の遺言を私に伝えた。決して自分のために仇討ちをしてはならない。裏切り者は既にファミリーの中で重要な地位についている。私が直接手を下せば必ず二つの組織の間に大きな抗争を呼ぶ事になる。自分一人の死のために、余計な血を流してはならないとね」
「その通りにしたのですか?」
「命をかけた男の言葉だ。聞き届けるより他無かった。だが、私も手をこまねいていたわけではない。直接手を下さない方法でしっかり報復はさせてもらった。彼が暗殺された日、裏切り者の手を逃れたもう一人の人物がいた。その人物こそ、『フローラ』くんのお母上の実の弟、ファミリーのドンの次男だった。深い傷を負いながら、その青年が逃げ延びた場所がこのホテル……いや、あの当時は一人の令嬢を外の世界から守るために建てられた城、『蝶の城(シャトー・ド・パピヨン)』だったのだよ!」
「このホテルが……」
「そう。まるで中世の騎士物語のように屋敷の主人だった令嬢は傷ついた青年の手当をし、追っ手から彼をかくまった。二人は青年の傷が癒え、私が彼を保護するまでの長い時間、この屋敷で共に過ごした」
「じゃあ、二人はやはり……」
「恋仲だったか? それは私よりも本人達に直接聞いたほうが良いだろう。青年の傷が癒えた後、二人は袂を分かち、その後も結ばれる事はなかった。しかし、他の相手と結婚する事も無かった。少なくとも今日に至るまで二人とも独身を貫いている。これは私の推測だが、城の中に閉じこもっていた令嬢が外の世界に飛び出し、実業家を目指すようになったのは彼の影響によるところが大きいのだろうね」

天井のシャンデリアを見詰めながら、私はこのホテルの女主人に思いを馳せた。
華奢な、百合の花を思わせるような上品な人だった。
だけど、内側から輝いて見えるほどエネルギーに溢れた女性だった。
今度会ったら、あの人が昔経験した大恋愛の話を聞いて見ようかな?

「……『フローラ』くんの叔父は芸術と文学を愛する心優しい青年だった。長男が亡くなった時も、ドンであった父親も含めて彼をファミリーの後継者と見なす者は一人もいなかった。しかし、彼にとって義兄は神にも等しい存在だった。神を裏切りによって失った結果、青年もまた別人のように変わった。彼がどんな風に変わったのか。私の口から言うより、今の彼の名前を教えた方が君にとってわかりやすいだろう。今の彼は君の間で―――冥府送り(カロン)』と呼ばれている」

再び、ショックが私を襲った。
少女漫画なラブストーリーで和んでいたからダメージ二倍だった。

冥府送り(カロン)』!!!
『イクステンデット』の互助組織の幹部の一人にして事実上の最高責任者。
あの自他共に最強と認める『ブラックシールド・タートル』がただ一人忠誠を誓う超人の王。
そんな奴が深窓の令嬢と恋を語り合ったりするような文学青年と同一人物だったとは!

「イワンさん、私が彼の過去を知っている事はどどどどうかご内密に!!」
「それは構わんが、彼が昔ここにいた事は別に秘密でも何でもないし、『カロン』はそれだけで君をどうにかするような器の小さな男ではないぞ」

信じるもんか!
ぜっっったいに信じるもんか!!
昔は心優しかったかもしれないけど、今のあいつは血の代わりに液体窒素が流れていると噂されるほど冷酷な人間だ。
恩人のイワンさんの前で猫被っているだけかもしれないじゃないか!

確かに『タートル』も『リンクス』も恐い。
だけど、あの二人は解りやすいし、敵対しない限りは基本的に無害だ。
(『リンクス』は女性には紳士的なところがあるしね。『タートル』は男女平等に凶暴だけど……)
『カロン』は無表情みたいな笑顔からいきなり人を切り捨てるから一番恐いのだ!

「とにかく、話を続けてください」
「ふむ……その後、私は保護した青年を教育し、彼がドンの後継者になれるように全力で後押しをした。青年の努力もまた凄まじいものだった。特に敵を排除する事に関してはこの私ですら背筋が寒くなるほどの冷徹さを示した。必要とあらば残酷な拷問にも進んで手を染め、敵対者を一つの部屋に閉じ込めて焼き殺し、女子供や赤ん坊を人質に取る事も厭わなかった。この時の容赦の無い激しい責めのせいで、彼は後に冥府の渡し守、『カロン』の渾名で呼ばれるようになった。だが、それは全て義兄との約束を守るためだった。彼が最小限の血だけでファミリーの支配権を奪い取るためは仕方のない事だった。だからファミリーのドンとなった後も、あの裏切り者を手にかける事は無かった。その代り、殺すよりも過酷な制裁を奴に加えた。何よりも権勢を愛した男から全ての実権を取り上げ、名目だけのお飾りにして何年も飼い殺しにしたのだ」
「あれ? それじゃあ『フローラ』と母親は何故十数年もアメリカに隠れていたのですか?」
「叔父が彼女をアメリカから呼び戻さなかったからだ。彼女の母親も私も、『フローラ』くんに本当の事を教えなかった。私達は皆、彼女に黒社会とは関係の無い人生を送って欲しかった。普通の女性の幸せを味わって欲しかったのだ。だが、『フローラ』くんは帰還を果たした。私達の誰もが想像もしないほど強く、美しくなってね。その姿を見た時、私はどう頑張ったところで獅子の子供を猫として育てる事はできないと悟ったのさ……」
「『フローラ』は今でも、父を裏切った男への復讐を諦めていませんか?」
「それはわからない。諦めてしまったのかもしれないし、私達が予想もできないような遠大な復讐劇を企んでいるのかもしれない。いずれにしても私も『カロン』も彼女を止めるつもりはないよ。父君の遺言には成長した娘が復讐すると決意した時、それを止めろと言う言葉は無かったからね」

再び分厚いベルベットのような沈黙が部屋を覆い尽くした。
イワンさんは何も言わずに湯飲みの中を覗きこんでいた。
もしかしたら、今自分が語った過去の事を振り返っているのかもしれない。
でも、私にとってもその方が都合が良かった。
今聞いた話を静かな環境でじっくり吟味したかったからだ。
『フローラ』の弱みを探るつもりが、とんでもない話を聞いてしまったものだ。

昔、一人の男がいた。
超人的な体力とカリスマを持ちながら、人間以外の何者でもなかった男が。
彼の人生と死が今に至る日本の『イクステンデット』の社会の趨勢を決める切っ掛けとなったのだ。
今すぐ役に立つ知識じゃないけど、重要な情報には違いない。
私は今聴いた内容を全てメモ書きに残すと、こっそりそれを体の中に仕舞いこんだ。

それにしても、今の話を聞いてますます解らなくなってしまった。
後で情報の裏づけを取って見るまで本当の事はわからないけど、イワンさんの話を吟味する限り彼が独裁者に手を貸すような人間には思えない。
でも、もう私には彼がお父さんやお母さんの仇なのか調べるチャンスは巡ってこない。
『フローラ』達が『アルゴス』を倒して戻ってくれば私達は分かれ、多分もう二度と会う事はないはずだ。

やはり、ここは多少リスクを負う事になってもイワンさんの口から直接彼と私の国の関わりを聞くべきなのだろうか?
長い間、悩みつづけた。
でも、結局決心はつかなかった。
だから、いきなり速球で核心を突く代わりに変化球で攻めてみる事にした。

「あの……イワンさん」
「ん? 今の話で何聞きたいことでもあったかね?」
「いいえ、さっきのお話とはまた別件なのですが……イワンさんは狭間くんの家族に会うためにこの国に来たと言っていましたね。よろしければ彼らに会いに来た理由を教えていただけませんか?」

正直、返事を断られる事を覚悟していた。
だが、イワンさんは私の質問を拒絶する代わりに明らかに困惑した表情を浮かべた。
私は慌ててその表情から彼の考えを読み取ろうとした。
これは苦悩、躊躇、諦観……それから、隠し味程度の苦痛かな?
だけど、イワンさんがまさに口を開こうとしたその瞬間、突然玄関のチャイムが鳴った!

「おっと、頼んでいたディナーがやっと届いたようだね」

ほっとした表情で席を立ち、ドアに向かうイワンさん。
ああもう、一時間以上前に頼んだのになんで最悪のタイミングでディナーが届くのさ!
それから、イワンさんも腰が軽すぎ!
仮にも命を狙われている人がほいほいとドアに近づかないでくださいよ。
私は依頼人の代わりにディナーを受け取るために立ち上がろうとした。
しかし、

「こ、今晩は! ディナーをお持ちいたしました!」
「……おお、これは可愛いメイドさんだね」
「はい! 今日からここで働かせていただいております!」

ドアを塞ぐように立つイワンさんの巨体。
大きな背中を飛び越えて部屋の中に入ってきた鈴の音のような声。
それを聞いた瞬間、私は足元がぐにゃりと歪んだように感じた。

そんな。
どうして。
信じられない。

私はその声の主を誰よりも良く知っている。
だけど、彼女はここにいないはずだ。
いちゃいけないはずなんだ!!!
無礼も失礼も一瞬で脳内から消し飛んだ。
私はイワンさんを押しのけるようにドアの前に立った。
そして予想通り―――

「どうして貴女がここにいるのっ!!」
「え、嘘! お、『オーロラ』なの!?」

部屋の入り口にはディナーを乗せた手押しワゴンとヴィクトリア風のメイド服に身を包んだ栗色の髪の少女が、



私の妹、『レインボー』が立っていた!!!

 

 

 

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