EX=Gene

 

 「二年目の誕生日」

               ――Rebirth――

Act.6:「疑惑と転機」


イワンさんの依頼に同意した途端、ずっしりした重みが右肩に圧し掛かった。
見ると白髪の依頼主が分厚い手の平を肩に置いたまま私を見下ろしていた。
この人何時の間に立ち上がったんだろうと疑問も思う暇もなく、腋の下に手を差し込まれ、こちらも立ち上がらされた。

「よく引き受けてくださった、『極光(オーロラ)』さん! 貴方のご決断を嬉しく思いますぞ!」
「イ、イワンさん、いったい何を?」
「ほら、この国に『善は急げ』と言う諺があるでしょう。早速仕事の打ち合わせに入ろうじゃないですか」

私は依頼を受けた。
だから、これから仕事の打ち合わせをする。
うん、とってもスムーズな流れだと思う。
でも、それと私たちが今バスルームに向かっている事とどんな関係があるんだろう?

「い、いや、急がば回れとも言う諺もありますよ! 今からどんな打ち合わをするのか教えてください!」
「いやあ、私も若い人にお見せするのは久しぶりでしてな。ちょっと照れておるんですよ」
「見せるって何を! 具体的にはナニを!!

またこのパターンか!
問答無用に人を拉致するのが最近の流行なのか!!
失礼にならないように手を振り解いて説明を求めようとした。
だけど、イワンさんに捕まれた肩を中心に体が痺れて力が入らない。
まさかこれが噂に聞く日本の神秘、骨子術!?

私は助けを求めるように『華神(フローラ)』と『切り裂き屋(リッパー)』の方を見た。
あの女はにっこり笑って、ごゆっくりとでも言うように私達に手を振っていた。
相棒の方は私とイワンさんを交互に見ながら、きょときょとと落ち着かない視線を投げかけている。
ああ、あんたらが当てにならないのは分かっていたよ……。

こう言う時にぴったりな日本の諺ってなんだろ?
四面楚歌?
五里霧中?
七苦八苦も悪くないかも……
私はがっくりと体から力を抜いて、バスルームの中に引き釣り込まれた。
そして、それから延々と私はマッチョなご老人のストリップショーに付き合わされる羽目になった。

私がようやく開放された後、壁にかけてあったアンティークな時計の針は三十分ほど動いていた。
体感時間ではもう半日以上もあのバスルームの中でイワンさんと二人っきりで過ごしていたような気がする。
新鮮な外の空気を胸一杯に吸い込んだ後、私が最初にした事は萎れた野菜のようにソファーに倒れこむ事だった。

うっぷぅ…………

お母さん、貴方の子供は凄いものを見てしまいました。
ナニが凄いってまずボリューム。
それから色と艶と質。
後トッピングも色々と凄かったです……。

なんとかパンツだけは勘弁してもらったけど(ちなみに黒のビキニパンツだった。それもぴちぴちの……)筋骨隆々のおじいちゃんの裸は物凄いインパクトであった。
このホテルのバスルームはマンションの一室ぐらいの広さがある。
しかし、イワンさんと一緒に入るとまるで監獄の独房みたいに狭く感じられた。

服を脱いだイワンさんの身体は予想以上に『ご立派』だった。
だけど、その圧倒的な筋肉以上に目に付いたのが体中にまるで花畑のように咲いた無数の傷痕。
切り傷、刺し傷、火傷に銃痕。

私は『強化人類(イクステンデット)』以外でこんなにたくさん傷を負って生きている人間を見たのは始めてだった。
無数の傷の中で特に目立っていたのは分厚い大胸筋、そして背中から腰にかけて走っていた筋状の傷。
それは何の傷かと聞いたらイワンさんは少し恥ずかしそうに、

「いやあ、昔シロクマとナイフで格闘する羽目に陥った事がありましてな」

私の前で披露されている健康すぎるほどの肉体を見れば、どっちが勝ったのかは聞くまでもない。
もうちょっとシロクマを大事にしましょうよ、イワンさん。
一応、絶滅危惧種なんですから。
この人と話していると、シロクマがか弱い動物に思えてくるから不思議だ。

裸眼で見るには、あまりに刺激的過ぎる光景であった。
できればサングラスをかけるぐらいは許して欲しかった。
でも、イワンさんのストリップが変身の参考になったのも事実だった。

ちなみに私が得意とするのは身長150cmから180cmぐらいの人間の変身。
これ以上背が高かったり、低かったりすると変身する時にちょっと工夫がいる。
しかも、体の大きな人はまだいいけど、体の小さな人に変身するのは特に骨が折れる。

私は自分の筋肉や骨の形を自由に変えられるが、内臓や脳の大きさまで変える事は出来ない。
限られた体積の中にどうやって内臓をコンパクトに収納するかが小柄な人に変身する時のコツだ。
もちろん、膨らんだ胃袋が他の内臓を圧迫するのを避けるために変身している間は一切食事が取れない。

文字通り頭が痛いのは脳の置き場所。
頭蓋骨の大きさを縮めるのには限界がある。
だから、あまり小さな姿に変身しようとするとどうしてもちょっと頭でっかちな人間になってしまう。
服や体の大きさを微調整すれば、目の錯覚を利用してある程度頭の大きさを誤魔化す事はできる。
でも、やっぱり近くで見た時に若干の違和感は拭えない。

それと元のサイズに戻った時に服が破れる事も小さな体に変身する事のデメリットに付け加えておこう。
私は以前、そのせいで死ぬほど恥ずかしい思いをした事があった。
元凶は言うまでもなく、『フローラ』だ……。

イワンさんに変身するのは小柄な人間に変身する事に比べれば随分楽だったけど、簡単な仕事ではなかった。
私の自然な身長は172cm
体重は多分60kgぐらいだろうか。
それに対してイワンさんは私より30cm以上高く、体重はほぼ二倍近い。
これだけ体積の違う相手に変身するとなると、ちょっと手間がかかる。

まずスポンジのように筋肉と筋肉の間に空気を取り込んで、見かけ上の質量を増やさなくてはいけない。
それにも限界があるから、足りない分の体積は服に綿を入れたり、シークレットブーツで誤魔化した。
最初の変身に5分、服やシークレットブーツをあれこれ試すのにもう10分。
最後の微調整に15分かけて、ようやく納得できる形に仕上げる事が出来た。

イワンさんが感嘆の声を上げる。
彼の目の前に等身大の姿見でしか見る事の出来ない自分に瓜二つの老人が立っていた。

「どうです? ご満足いただけましたかな?」

口調だけではなく、声紋まで完璧に模倣した声で私は聞いた。
イワンさんは背中で手を組み、ぐるぐる回りながら私の姿を観察した。
そして背中に回った時にちょっと悲しそうな声で言った。

「ううむ、概ね気に入ったのだが。その……髪の毛はもうちょっとどうにかなりませんかな?」

イワンさんのご希望通り目立たない程度に髪の毛を増やした後、私たちはホテルを出発した。


*  *  *


郊外のホテルを訪れる時、私はSクラスのベンツに乗っていた。
イワンさんたちと出ていく時、私が乗ったのは中古のワンボックスカーだった。
しかし、車内に一歩足を踏み入れた途端、私はこのみすぼらしい車が老いぼれ馬の皮を被ったとんでもない怪物だと言う事を知った。

ワンボックスカーの中は指揮戦闘車並みの電子機器がぎっしり積み込まれていた。
ジャングルの蔦のように縦横無尽に這いまわる電子ケーブル。
読みきれないほどの情報を吐き出す無数の液晶ディスプレー。
そのディスプレーの光で病的な色に染まったスタッフ達の顔。
この車を設計した人間はバックシートに二、三人が座れるほどの空間を設けていたが、惜しげなく詰め込まれた人員と機械のせいで今は貧乏ゆすりも出来ないほど窮屈に感じられた。

過剰な改造を施されたのは電子機器ばかりではなかった。
ソファーを通して伝わるエンジンの振動からはヘリコプターの発動機並みのパワーが感じられた。
スピードメーターに目をやると、何の冗談なのか最高時速500km/hの文字が見えた。

だが、この車で一番異常なのは中身でもエンジンでもなく車体を覆う外装だった。
『フローラ』がこの車のボディに最新式の戦車に使う爆裂装甲を搭載している事を知った時は流石に眩暈を感じた。
一体、このワンボックスカーでSクラスのベンツが何台買えるんだ!?
これはもう乗用車じゃない。道路を走る指揮戦闘機だ!

金を湯水のように使う『フローラ』のやり方が鼻についたので、この車に足りないのはもう重火器だけだね、と皮肉を言ってやった。
するとあの女はにやりと意地の悪い笑みを浮かべて、

「絶対にこのボタンは押しちゃ駄目よ

自分が押したくて溜まらないと言ったような感じて運転席の一角を指差した。
そこには透明なプラスチックのカバーに覆われた毒々しい色のボタンがあった。
黒いインキで塗装されつぶらな瞳のドクロマークがこちらに微笑みかけていた。

何を考えているんだ、この女……。
もう一度言おう、何を考えているんだ、この女!!
私はこの仕事が終ったら、二度と『フローラ』の車に乗るまいと堅く心に誓った。

『フローラ』はこの化物車でも足りないのと考えたのか。
私が乗っているワンボックスカー以外にも数台の車が警備のために駆り出した。
路上斥候用にワンボックスカーの先頭を走る車が一台。
狙撃や自爆から私を守るための護衛車が前と後と隣りの車線に一台ずつ。
さらにいざと言う時の交代要員が数台、私の車から離れた場所を走っていた。

もちろん、全ての車に防弾加工が施されていた……。
この時点で私は『フローラ』が今回の護衛のためにどれほどの金額を投入しているのか推測するのを諦めた。
お金持ちってお金を大事にしないから嫌いだ。

ところで、肝心の『フローラ』とイワンさんがどこにいるのかと言うと、実は二人ともしんがりの護衛車に乗っていたりする。
最後尾の護衛車は敵が背後から襲いかかってきた時に体当たりで敵の車を止めて、VIPが逃げるための時間を稼ぐと言う一番危険任務を担っている。
だからこそ、逆に本命のターゲットが騎乗しているとは考えにくいのだろう。

イワンさんの姿をした私は、彼のスケジュールを本人に代わって勤める事になった。
イワンさんはもともと狭間一家に会うために日本にやってきたらしい。
しかし、『アルゴス』の無粋な横槍のせいでこの予定は一番後回しにするしかなかった。
代わりに私はイワンさんの代理人として、彼の来日を知って訪ねてきた様々な人間達の接待を受ける事になった。

その時まで、私にとってイワンさんは風変わりな資産家の老人でしかなかった。
だが、彼を訪問した面々を見た後で私はイワンさんが単なる資産家以上の存在である事を知った。
仕事柄、上流階級と呼ばれる人達には何度も会っているが、その日私が顔を合わせたのは単なる資産家達とは格の違う相手ばかりだった。

日本経済団体連合会の副会長。
世界的に有名なT自動車の役員。
経済産業省の事務次官が顔を出した時は驚きすぎて笑いがこみ上げたものだ。

しかし、雲上人たちの相手をするのは思っていたよりも楽だった。
体の中に隠した骨伝導マイクを通じて、イワンさんが逐一どう話せば良いのか指示してくれたからだ。
私はただ、彼の言うとおり操り人形のように振舞うだけで良かった。

確かに最初の頃は冷や汗もののやり取りも少々あった。
だけど、三人目をこなす頃には私もイワンさんのキャラクターにすっかり慣れて、ゆっくりと彼らの会話に耳を傾ける余裕が出てきた。
イワンさんと財政界の要人達の会話は人心誘導や承諾誘導のオンパレードだった。

訪問者達はあらゆる手を尽くして、一つでも多くのイエスを老人の口から引き出そうとした。
彼らの会話は話し合いと言うよりは、言葉を使ったフェンシングか柔道みたいだった。
そして、私の依頼人は一癖も二癖もあるエリート達を相手に一歩も引かなかった。

幻惑しようとするフェイントには目も向けず、真っ直ぐに突き込まれた言葉を滑らかに受け流し、敵が隙を見せればすかさず痛烈な一撃を加える。
会談を終えて分かれる頃には、相手は決まって煙に撒かれていた。
実は話は全く進展しないにも関わらず、何かを成し遂げたような気になって会談の席を後にした。

私は体の中に隠して置いたペンとメモ用紙を使ってこそっり会談の内容を書き留めた。
用心とメモは常に怠らない事。
それが戦場で学んだ生き延びるための秘訣だった。

依頼を引き受けたが私はイワンさんの事を全面的に信頼しているわけではなかった。
『フローラ』に至っては、ノミの爪先ほども信用しちゃいなかった。
それに情報と備えは何時だってたくさん集めておいた方が良いものだ。

お手洗いに行くなど護衛達の目が外れる僅かな時間を利用して自分で書いたメモを読んだ。
今までの会談を比較して見ると話し相手や場所はその都度変わっていたが、話している内容はほとんど同じである事に気がついた。
イワンさんを訪れた人間達は全く違う口で同じ名前を何度も繰り返していた。

インジウムやアンチモニー。
ネオジウムやタングステン。
そして、天然ウランを始めとする何種類かのレアメタルだ。

インジウムやアンチモニーは家電製品に欠かせない素材だ。
ハイブリット車はネオジウムでできた磁石がなくては動かないし、タングステンは鋼材を切ったり削ったりする超硬工具の原料になる。
天然ウランはもちろん原子力発電炉の燃料だし、核兵器の材料にもなる……。

イワンさんはこれらレアメタルを取り扱う巨大な財団の代表者のようであった。
現在はすでに引退し、後継ぎである息子に経営者の席を譲ったが、財団での影響力は依然として絶大らしい。
加工貿易を行っている日本の経済人達がイワンさんに擦り寄るのも無理はない話だ。
だが、私は要人達が口にした名前に他の共通点を見出していた。

話し合いの中で上がったレアメタルや天然ウランは全て、私の祖国ドラーシャに発掘される鉱物と同じものなのだ。

一人の男の名前が突然、私の脳裏に蘇った。
最初、それは地平線の彼方に浮ぶ小さな雲のようなイメージだった。
しかし、瞬く間に巨大な積乱雲のように膨れ上がって私の思考を覆い尽くした。

その男は嵐雲のように黒く日焼けした肌を持っていた。
野性的な顔立ちの中で閃く両の瞳は鋭く人心を突き刺す雷光。
そして、彼の声は人の心だけでなく内臓までも揺さぶる雷鳴そのものだった。

―――
コンスタンティン・アンドロポフ…………

それが私達に選ばれ、私達を迫害し、私達の国に取り返しのつかないダメージを与えた独裁者の名前だった。
アンドロポフはもともと鉱山労働者の纏め役だったと言う。
その頃から神がかり的なカリスマの持ち主だったが、金ともコネとも無縁の存在だった。
そんな鉱山出身の野蛮人がたった十年足らずの時間で一国の大統領の座まで成り上がったのには外国の、それもアメリカの財団の後押しがあったからだ。
そして、アンドロポフは強力な援助と引き換えに私の国に埋蔵されていたレアメタルと天然ウランの発掘に関わる利権をその財団に与えたのだ。

イワン・イリヤノビッチ・イワノフとコンスタンティン・アンドロポフ。
今まで何の関係もなかった二つの名前が私の中で急接近を始めた。

財団は同胞を鉱山で奴隷のように働かせ、私達の大地が生み出した資源を吸血鬼のように吸い上げた。
いや、そもそも財団がアドロポフを後押ししなければ、私や妹が塗炭の苦しみに喘ぐ事もなかったのだ。

断末魔の悲鳴を上げながら、傾いて行く母国。
その時に見た光景が嵐のように私の中を通り過ぎて行く。

―――
フラッシュバック。 

狂人の煽動に会わせて拳を突き上げる群衆。自分達を屠殺場に送り込む盲目の羊達。

―――
フラッシュバック。 

熱で縮む皮膚。喉を焦がす熱い煙。そして、私の腕の中で妹がゆっくりと焼き殺されようとしている。

―――
フラッシュバック。 

仲間と一緒に突入した強制収容所。私が助けた人達。助けられなかったもっと多くの人達。汚れた子供服の山の上に置かれた小さな赤い靴。

憎悪が酸のように血管を駆け巡り、怒りが炎のように脳を焼く。
体内に隠している合成樹脂の刃が私の骨と一緒に復讐を叫んでいる。

だけど頭に浮かんだ妹の顔と一つの疑念が衝動的な復讐に走りそうになった私の心を押し止めた。
今私が依頼人に襲いかかれば、その行為が成功しようがしまいが家族を危険に晒す事になる。
それに一つだけどうしても納得できない事があった。

『フローラ』は私がレジスタンスの『顔なし(フェイスレス)』だと言う事を知っている。
偽造の身分証を作ってもらう時に私から彼女に打ち明けたのだ。
あの用心深い女が私の過去を知りながら宿敵の影武者を頼んだりするだろうか?

もしかしたら、私はもっと手の込んだ分かりにくい陰謀が巻き込まれているのかもしれない。
『アルゴス』に関する話は全部『フローラ』のでっち上げでだとしたら?
あの魔女は全て知った上で私を暗殺者に仕立て上げようとしているんじゃないのだろうか?

一瞬そんな考えが頭を過ぎったが、私はすぐに自分でそのアイディアを否定した。
馬鹿な、そんなのはありえない。
そんな事をすれば、どんなに隠蔽しようとしても『フローラ』がイワンさんの不審な死に関わったと言う噂が広まってしまう。

『フローラ』の能力を使えば自然死に見えるように人一人殺す事なんて造作もない事だ。
わざわざ『事件屋』の評判を危険に晒してまで私を使って回りくどい暗殺劇を組む理由なんて何もない。

なら何故『フローラ』はたくさんいる仮装能力者の中から私を選んだのか。
イワンさんや財団の正体は一体何?

答えが見つからないまま、問いだけが同じ場所をぐるぐると回り続ける。
しばらくの間、頭の中の迷路を彷徨うのを覚悟しようとしたその時。
全てをぶち壊す衝撃のニュースが飛び込んで来た。


『アルゴス』がとうとう姿を表したのだ!


*  *  *


『アルゴス』が現れたと言う知らせが届いたのは、一日のスケジュールを終えて私達がホテルで休みを取っていた時の事だった。
疲れのせいで少し弛緩していた空気は、携帯を手にした『フローラ』の「来た」と言う呟きで瞬時に引き締まった。

その一言で部屋の何もかもが変わった。
護衛のスタッフが早足で室内を駆け回る。
ビリヤード台の上に『アルゴス』が現れた地区の地図が張られ、その地区にいる人員が色付のピンで配置されて行った。
コールし直す手間を省くために『フローラ』が一ダースの携帯を使い分けて、表記を包囲している配下に命令を飛ばしている。

だが、部屋の中で最も際だった変化を起こしていたのは『リッパー』だった。

今までぶつぶつ何か呟いていた唇が突然堅く閉ざされた。
緊張と不安で散大していた瞳孔がゆっくりと黒い点にすぼまって行く。
貧乏揺すりを繰り返していた手足から無駄な力が抜け、体はリラックスした状態でソファーにもたれかかった。

それは目で見る限り、大きな変化ではなかったかもしれない。
でも『リッパー』をよく知る者の目は、彼がとてつも無く危険な存在に変わった事がわかったはずだ。

私は知っている。
純粋に殺すために躾られた軍用犬は闘犬みたいに無駄吠えをしたり、野性の狼のように容易に牙を見せたりはしないものだ。
彼らは普段はどんな羊よりも静かで大人しい生き物だが、主人の命を受けた瞬間目的を遂げるためだけの機械と化す。
犠牲者達は喉を切り裂かれて始めて猟犬の牙の鋭さを知るのだ。

『フローラ』が最後の命令を飛ばし、携帯を閉じる。
『リッパー』に向かってゆっくりと歩いていく。
部屋中の視線が二人に集まっている。
でも、二人はお互いだけを見詰めていた。

『リッパー』は何も言わず、絶縁体の手袋に覆われた両手を差し出す。
『フローラ』は自分の手で相棒の手を包み込み、彼の耳元にそっと何か囁いた。
多分私の知らない、『リッパー』の本当の名前を……。
そして、

「行って、見つけて、そして仕留めて!」

魔法の呪文と共に魔女は忠実な使い魔の首輪(てぶくろ)を解き放った。

放たれた『リッパー』の両手から雷光が牙を剥き、火花の涎を垂らす。
電磁波能力者達の『発電細胞』は私達、『EX=Gene』の申し子の中でも謎の多い存在。
ましてや最高の発電力を誇る『リッパー』の身体は神秘の塊と言って良い。
彼の小さな体がどうやって発電所に匹敵するほどのパワーを生み出せるのか、物理学者でもない私には完全に理解の外だ。
理解できないが、一つだけ私にも分かる事がある。

それは脅威。
天を走る雷や燃え盛る火口を見下ろした時に感じる原始的な恐怖。
自分の身体を細胞一つ残さず破壊するほどの力に接していると言うその自覚。
皮膚を撫でる静電気を感じながら、私は『アルゴス』の死を確信した。

 

 

 

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