EX=Gene
第一話 「切り裂き屋の憂鬱な日曜日」
――A happy happy Holiday――
Act.5
―――時間は30分ほど前に遡る。
「可愛い野郎だねぇ……」
地下駐車場の真上、廃ビルの三階にあるエレベーターホール。
黴や煙草のヤニ、そして何か正体不明の汚れで黒ずんだ壁に背中を預けながら、『山猫』は呟いた。
鉄筋コンクリートを始めるとする様々な障害物に隔てられているにもかかわらず、彼はその能力を以って『切り裂き屋』の動きを完璧に把握していた。
『切り裂き屋』を自分に有利な戦場に誘い込んだつもりだろうが、EX=Sensitive、特に『山猫』に対して地の利と言う概念は通用しないのだ。
『山猫』がこの廃ビルに足を踏み入れたのは今日が初めてだが、彼は僅か数分の間に既に下調べのために何度もこの建物に足を運んできた『切り裂き屋』よりも遥かにこの場所の構造について熟知していた。
そうとも知らずに、地下にいるあの男は彼を罠に嵌めようと埃塗れになりながらちょこまか動きつづけている。
滑稽なのを通り越して、哀れみすら催してきた。
もともと……『山猫』は『切り裂き屋』個人に対してさほど恨みを感じていない。
『百目』の死について調査を始めたかなり早い段階で、『切り裂き屋』の背後に見え隠れする他の能力者の影に気付いたからだ。
恐らく、自分と同じEX=Sensitive、それも裏社会の流儀に通じたかなりのプロフェッショナル。
所詮、『切り裂き屋』等恨みにも値しない小物、使い捨てのただの道具に過ぎないと『山猫』は看破している。
『切り裂き屋』の刃を操る黒幕こそ『山猫』の真の標的なのだ。
先ほど、携帯を介した会話で『切り裂き屋』は『山猫』が狂気に侵されていると推測したが、それは半分正しく、半分間違っている。
『山猫』の精神は確かに狂気に焼け焦げている。
しかし、その狂おしい熱も彼の鋼鉄のように頑強な知性まで焼き尽くす事は出来なかった。
銃声を子守唄に、屍山を褥に過ごした半生が狂気に陥った今もなお、彼に計算づくの思考を完全に放棄する事を許さなかったのだ。
結果、『山猫』のどろどろに煮え滾る情念は知性と言う金型によって確かなベクトルを与えられ、彼を以前よりも、単なる狂人よりも遥かに危険な存在に変えたのである。
「それにしても、だ」
闇の中、一人呟く。口元に漂う白い息。
「あの始末屋は、残念な事しちまったなぁ。あいつを生かしてりゃこんな面倒な事しなくて済んだかもしれねえのに……」
『山猫』はあの時、死体処理業者を手にかけたことを後悔していた。
と言っても、別に殺した事自体大して気にしてはいない。
殺すべき時期を誤ったと考えているのだ。
始末屋を彼自身の工具で解体処理してアルカリ溶液がたっぷり溜まった水槽に漬け込んだ後、『山猫』は始末屋の工房にあった情報端末を調べて愕然とした。
『百目』を手にかけた下手人が海外の仲介業者を通じて現場と死体の処理を依頼した事がわかったからだ。
かなり手間と金のかかるやり方だった。
普通の極道や犯罪組織はこんな面倒な手続きを踏んだりしない。
しかし、これで『山猫』が始末屋の線から主犯を辿り着く事はほぼ不可能になってしまった。
通常、『強化人類』にとって海外に渡る事は並大抵の苦労ではない。
『山猫』のような裏社会のプロでさえ、安全に海を越えようと思ったらかなりのコネとカネを使う必要がある。
能力者が通常の航空機を使用する事は著しく制限されているからだ。
飛行機は自家用機でもない限り、搭乗不可能と言ってもいい。
それも無理はない話だった……。
『強化人類』の異能力は拳銃などよりも遥かに危険で、しかも自分の身体から取り外す事のできない代物なのだ。
そして、潜在的な危険性以外にも能力者達を飛行機から遠ざける問題は山ほどある。
まず『強化人類』の6割を占める四肢強化型のEX=Physical達は変わり果てた姿形のせいで、空港に入り込む事も出来ない。
仮に飛行機に乗れたとしても、エコノミークラスでは椅子に腰をかける事すらままならないだろう。
携帯電話やノートパソコンよりも遥かに強烈な電磁波を放つ『切り裂き屋』のような能力者は飛行機に近寄る事も許されない。
生きた化学兵器とも言うべきEX=Chemical達も同様の理由で全員門前払いだ。
その上近年、飛行機のハイジャックに敏感なアメリカなどの国では全ての空港に遺伝子検査を義務付けている。
このために、見た目だけでは普通人と区別がつき難いEX=Sensitiveや変装能力者達もほぼ全て搭乗口で撥ね退けられ、運が悪い場合は身分を拘束されるようになった。
能力者がてっとり早く海外に渡るためには、危険を覚悟の上で飛行機の貨物室の中に紛れ込むか、船を使うしかない。
そして、どちらも少なからず時間と手間がかかる。
『山猫』のような有名人の場合、さらに海外に渡った後の偽造の身分証明やパスポートも必要になってくる。
全ての手続きを終えて、ようやく『山猫』が現地に到着する頃には仲介業者は自分の痕跡を完璧に消した後に、悠々と姿をくらましているだろう。
そう言うわけで、『山猫』にとって『切り裂き屋』は相棒を殺した主犯に繋がる、か細くも貴重なただ一本の糸となった。
『山猫』は細心の注意を篭めてこの糸を手繰り寄せようとした。
最初、『山猫』は『切り裂き屋』を拉致監禁してから、じっくり黒幕の情報を聞き出そうと考えていた。
しかし、これは『切り裂き屋』の背景を調べているうちに、不可能に近い事が分かった。
最大の障害となったのがあの異常な破壊力だ。
『切り裂き屋』個人はただの凡庸な男に過ぎないが、奴の力はその余波だけで十分人を死に至らしめる。
迂闊に近寄るのは非常に危険だった。
なら、昏倒させてから連れ去ればよいのではないかと思うだろうが、今度は『切り裂き屋』の特異な体質が立ちふさがる事になる。
回復力が高すぎるせいで、気絶させてもすぐに意識を回復してしまうのだ。
実際、繁華街で『山猫』は常人なら丸一週間、普通の肉体強化型能力者でも一時間は動きを封じられる程の攻撃を加えた。
しかし、『切り裂き屋』はほぼ一瞬で気絶から回復、三分程度で走り出し、今見る限りではダメージの痕跡等どこにもないようであった。
薬物で眠らせると言う選択肢は最初からあまり期待できなかった。
もともと『強化人類』達は個々人で体質が違いすぎるため、同じ薬物を使っても効き目がなかったり、全く違う薬功を示したりする事が珍しくない。
特に『切り裂き屋』のような全身を変異させたタイプの能力者には普通の睡眠薬が効果を表す保証がどこにもなかった。
それでも、駄目もとで喫茶店に入った『切り裂き屋』の紅茶の中に睡眠薬を混ぜてみたが、1時間待っても、2時間待っても奴はあくび一つ漏らさなかった。
うっかり適量以上の睡眠薬を飲ませて貴重な情報もろとも『切り裂き屋』の脳を損傷させてしまってはもともこうもない。
薬物を使った拉致も断念せざるをえなかった。
かと言って、普通のスタンガンを幾ら改造した所で体内に小型の発電所を一つ持っているような『切り裂き屋』相手に痛いと感じさせる事ができるかどうさえ怪しかった。
仮に拉致に成功したとしても、今度はどこに監禁すればよいのかと言う問題が持ち上がってくる。
この世の全ての物質を破壊する能力の持ち主を一体どこに閉じ込めておけば良いと言うのか。
例え、核シェルターの中に閉じ込めたとしても、『切り裂き屋』にとっては麦わらで出来た小屋の中にいるのと変わりないのだ。
散々検討を加えた結果、『山猫』は衆人環境の中に身を隠したまま、じわじわと相手を弄って口を割らせる事にした。
何千人もの一般人の肉体は彼を覆い隠す隠れ蓑にもなれば、『切り裂き屋』のマイクロウェーブから身を守る盾にもなるはずだった。
やけくそになった『切り裂き屋』が能力を乱射する可能性があったので、常に建物等の影に飛び込める位置から拷問を加えつづけた。
本音を言えば、『山猫』は『切り裂き屋』が暴走してくれないものかと少しだけ期待していた。
かつてEX=Gene発症時に世界中の『強化人類』達が自分らの権利と生命を守るために作った互助組織、通称『党』。
彼らは能力者間の自治組織と言う形で、少しずつ影響力を増しながら現在も存続している。
もし『切り裂き屋』が首都圏の繁華街で大領虐殺などと言う大事件を起こせば、必ずや彼らが動き出すに違いない。
圧倒的な物量で『切り裂き屋』を捕らえ罰し――『山猫』が一人で探し回るよりも遥かに容易に――彼の背後にいる黒幕を暴き出し、表舞台の上に引きずり出してくれるはずだ。
勿論、そうなれば『切り裂き屋』を暴走へ追い込んだ自分も無事では済まされない。
『切り裂き屋』に勝るとも劣らないほど、厳しい状況に追い込まれる事になるだろう。
現在、『党』の日本支部の長を務める『冥府送り』は、 時々『山猫』にさえ寒気を覚えさせるほど冷徹な男だ。
それに『党』が総力をあげて動き出すとなれば、『冥府送り』直属の奴が、あの怪物、『黒殻の亀』が間違いなく姿を表す。
『切り裂き屋』が破壊力において他に並ぶものがないように、単純な戦闘能力に限って言えば『亀』は同じ能力者の中でも別格の存在。
四肢強化型能力者の中で最高峰を誇るそのパワーとスピードは、最新の兵器をまるで紙のようにやすやすと引き千切る!
あの怪物 を相手にしては流石に『山猫』でも無傷では済まされない。
戦って負けるとは思わないが、それでも手足の1,2本は失う覚悟をしていた。
別に勝たなくてもいいとも思っていた。
要は、『百目』を殺した下手人に報復ができればいいのだ。
もとより、『百目』のいないこの世に未練などない。
復讐を果たした後ならば、『亀』に用済みとなった身体を幾ら引き千切られてもかまわない。
殺される覚悟なら、復讐を誓った時にとっくに完了している。
しかし、『切り裂き屋』を追い詰めているうちに、事態は思わぬ方向へ好転し始めた。
(まさか、自分で袋小路に飛び込んでくれるとはねぇ……)
柱の影で鼠のように縮こまっている『切り裂き屋』を監視しながら、内心そう呟いた。
戦いの天秤を少しでも自分に有利な方へ傾けるべく、この廃ビルを新しい戦場に選んだのだろうが、生憎この場で戦えば『山猫』の方が遥かに有利だ。
それに何よりも、ここなら幾ら『切り裂き屋』を痛めつけようが、騒ぎが外に漏れる恐れは全くない。
あらゆる状況が『山猫』にとって有利な方向へ傾いていた。
しかし、彼は全く油断してはいなかった。
今、この下にいる男は人間と言うよりも巨大な猛獣、いや怪獣に近い存在。
それに対して『山猫』は生来の狩人だ。
普通戦えばまず負ける事はないだろうが、圧倒的なパワーで一気に戦況をひっくり返される可能性がゼロになる事もまた決してない。
呼吸と体温から相手のバイオリズムを計測する。
散々走り回ったせいか、敵はかなり体力を消耗している様だった。
呼吸の間隔が徐々に長くなっていく。
少しずつ睡魔に侵されている証拠だ。
壁から背中を離し、足音を殺しながらエレベーターの方へ近づいていく。
『切り裂き屋』は知らない事だが、この建物には階段以外にも地下駐車場に通じる経路が幾つもある。
例えばこのエレベーター、電気を止められているため勿論動かないが、ドアは全ての階で開きっぱなしの状態で固定されている。
前の住人達がいざと言う時ここの縦穴を利用して脱出するために施した措置だ。
地下の駐車場はほとんど完全な闇に包まれている。
ここを使えば、『切り裂き屋』に気付かれずに地下に降りていく事ができる。
服の襟に手をやり、そこに隠している絞殺用のワイヤーを引き出そうとして指を止めた。
言葉にし難い微かな違和感。
再度、袖を鼻先に近づける。
違和感の正体が分かった。
匂いだ。
あるか無しかの微かな香りが『山猫』の鼻孔を刺激した。
まるで、女の香水のような。
熟れきった果物のような。
或いは―――
―――南国の華のような不思議な匂いが。
眉間に浅く皺が寄った。
おかしい……。
自分は普段、香水など使わない。
増してや危険な相手を追跡する時には極力自分の体を無臭に近づけるように用心してきたはずだ。
ならば、どこでこんな匂いが付着したのか?
ほんの些細な事が何故か酷く気に触った。
やはり何かがおかしい。
何かとても大事な事を見落としている様な気がする。
幾多の戦場から彼を生還させた戦士の勘がしきりに意識の片隅を叩いている気がする。
しかし、そんなの警戒感も次に目にしたもののせいであっさり霧散した。
地面に落ちていたそれを指先で摘み上げる。
目の前でしげしげと眺めた後、『山猫』は低い声で笑いながら、そのコンドームの包み紙を投げ捨てた。
どこの誰かは知らないが、こんな廃墟で精の出る事だ。
多分、ここに潜り込んだカップルが事に及んだ後に香水の匂いが壁に付着し、先ほどが壁に寄りかかったときにその匂いが袖口に移ったのだろう。
首を振って肩をすくめると、『山猫』は奇妙な香りの記憶を意識の片隅に追い込んだ。
今やるべき事は他にも山ほどあるのだ。
襟元に手をやり、絞殺用のワイヤーを一息に引き出す。
それをエレベーターの巻き上げ用ワイヤーロープに巻きつける。
ワイヤーの両端を握り締めると、『山猫』まるでロープ降下を行う特殊部隊のように一気にエレベーターの縦穴の中に躍り込んだ!
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あとがきのやうなもの
『切り裂き屋』から『山猫』へと視点変わりましたので、
今回、死亡フラグ用台詞はありません(笑)
『山猫』も色々と考えながら行動していたわけですね。
まるでとってつけたような説明ではありますが、
というか、多分突込みどころがいっぱいでしょうが、
どうぞ、そこはご勘弁を!!
そして、長らくお待たせしまして申し訳ありません。
次回、いよいよ本格的な戦闘が始まります。