EX=Gene

 

     「射手座の矢」


            ― The Lost Arrow ―


               
Act.3:「つかの間の安息 」




始めて会ったその日以来―――
深夜の森で老人から射撃のレッスンを受ける事が少女の密やかな日課となっていた。

分厚い針葉樹の影で、古のドルイド僧が密儀を伝授するようにケイロンは彼女に射撃の秘密を教えてくれた。
二人は何時間もかけて、『伏せ撃ち』や『膝立ち撃ち』、現在では珍しくなった『座り撃ち』、それよりもさらに珍しいフランス革命時代に流行った仰向けになって撃つ射撃態勢などについて話し合った。

一度だけケイロンが銃を撃たせてくれた事もあった。
老人のライフルは少女が見た事もないような血のように真赤な木材で出来ていた。

信じられないほど美しく、同時に驚くほど良く当たる銃であった。
巨木が悲鳴を上げる程風が強かったあの夜、少女はその銃を使って百メートル先で頼りなく揺れている木の葉のど真ん中を撃ち抜いた。

しかし、彼女は二度とその芸術品のようなライフルに触れようとはしなかった。
恐ろしかったからだ。
友人であったクロスボウは触れる度に心地よく彼女の体温を吸い上げた。
しかし、ケイロンのライフルは触れている内に、逆に何かが体内に流れ込んで来るような奇妙な感覚がした。
少女の怯えを察したのか、ケイロンもまた深紅のライフルについてそれ以上彼女に話そうとはなかった。

射撃のレッスンの合間にケイロンは世界中の射手にまつわる昔話や伝説を教えてくれた。
誰でも知っているウィリアム・テルやロビンフットの物語に始まり、魔王ラーヴァナを射殺したヴィシュヌ神の化身ラーマ王子や天に浮かぶ九つの太陽を射落としたと言う中国の英雄神に至るまで。
老人の言葉の翼は大きく羽ばたき、少女の心は彼の言葉と一緒に伝承の世界を駆け巡った。

中でもケイロンが得意だったのはギリシアやローマの神話だった。
オリンポスの神々の話をしている時の彼はとても生き生きしているように見えた。

「太陽の神、アポロは弓の名手であった。彼の矢は『神罰』と呼ばれ、その矢に当たった者は病に倒れ、間もなく世を去った。これが何を意味するのか分かりかな、おちびさん?」

ケイロンは良く話の途中でこんな風に少女に問い掛ける事があった。

―――つまり、剣が英雄たちの武器であったのに対して、弓矢は神々の武器であり、人間の運命を左右するものであったのだよ」

ケイロンの頭脳はまるで枯れる事を知らない泉。
そこから湧き出す物語と智慧は決して少女を飽きさせる事はなかった。
しかし、ある時聞き手に回ってばかりいる自分を不甲斐なく思った彼女は一つだけ質問を彼に投げ掛けた事があった。

「ねえ、ケイロン? 貴方がケンタウロスのケイロンと言うのなら、私は一体何なのかしら?」

わたしはだれ?
あなたのなに?
無償の愛を得た事のない少女が何気ない言葉の裏に隠した切ない問いかけ。
それを知ってか知らずか、ケイロンはいつもと同じ歌うような声で彼女の問いに答えた。

「もちろん君はケイロンの弟子、ハーキュリーさ。雷の神ユピテルの愛し子、外れる事を知らない私の可愛い、小さな『雷の矢(サンダーストライク)』だよ」



    



山荘のベットの上で目覚めた時、『サンダーストライク』は自分が眠りながら泣いていた事に気付いた。
頬に残る涙の痕跡を拭いながら彼女はさっきまで見ていた夢の内容を思い出そうとした。

十年以上の歳月が過ぎて、『サンダーストライク』はケイロンが実在した人間だったのか、それとも孤独な少女が生み出した妄想の産物だったのか、段々分からなくなり始めていた。
あの当時でさえケイロンは酷く現実感の薄い存在だった。

少女だった『サンダーストライク』にとって彼は森が彼女を慰めるために遣わした精霊、彼女だけの皺くちゃのピーターパンであった。
だから、ケイロンが短い手紙を残して突然姿を消した時もさしてショックも受けず、その事実を受け入れる事ができた。

ピータとウェンディは何時かさよならをする物だと分かっていたからだ。
夢を見続けるには現実的過ぎた少女は始めて会った時から老人都の別れを予感し、心構えを作っていたのだ。

しかし、今懐かしく、優しい夢から目覚めて彼女は始めて自分がケイロンを失ってどれほど悲しみ、彼の事を惜しんでいたのかを悟った。

ケイロンに会いたいと思った。
でも、それが叶わぬ願いだと言う事も分かっていた。

大人になった今なら良く分かる。
老人の禿げ上がった頭や艶の悪い皮膚が恐らく抗がん剤の副作用だと言う事が。
時々していた激しい咳が痩せた体が内側から少しずつ崩壊している兆候だった事も。

あの当時ですら、ケイロンは生きている事が不思議なぐらい年老いていた。
生きていれば今は九十歳か下手をすれば百歳になっているはずだ。
彼女が生きた老人に再会する可能性は限り無く低かった。
それでも『サンダーストライク』はケイロンに会いたいと言う想いを簡単に捨て去る事はできなかった。
その朝、彼女は宿の主人が朝食に呼びに来るまで、ずっとベットの中で懐かしい思い出の味を噛み締め続けた。


朝食の後、『サンダーストライク』はアダムソンにことわって散歩に出かけた。
宿の主人はここでも驚くべきホスピタリティを発揮し、積極的に彼女の思い付きに協力してくれた。

彼は薫製ハムと鴨のサンドイッチの弁当を作り、それに上等な紅茶を付け加えた。
『サンダーストライク』が道に迷わないようにGPS付きの携帯端末を貸し与え、その端末が壊れた時に備えて包囲磁針と地図まで持たせてくれた。

地図には鹿や鴨などの野生動物を安全に観察できる場所や鏡のように澄んだ泉の在処などがカラーペンで詳細に書かれていた。
しかし、『サンダーストライク』がその地図を使う事はなかった。

山荘から十分程歩いたところで彼女は突然登山道を外れ、小さな獣道に踏み込んだ。
行く先はこのマッド山脈でもっとも新しく血が流された場所。
ボルジャーノンが数々の準備射撃を行った言うその現場であった。

ロシア人が狙撃の準備に使った場所を順番に巡り、その痕跡を時間を惜しまず綿密に測定する。
最後の目的地、ボルジャーノンが一発の弾丸で二匹の鹿を打ち殺したと言う現場にたどり着く頃には時間はすでに正午を回っていた。

宿の主人が持たせてくれたサンドイッチ――やっぱりとても美味しかった――を囓りながら、その場所を観察する。
FBI
捜査官が見つけたと言う狙撃の痕跡は一週間分の雪風に洗われてもはや跡形もない。
しかし、『サンダーストライク』の第六感はそこに朧げな気配のようなものを感じた。
人間の限界にたどり着いた者達だけが分かち合える共感。
じっくり目を凝らせば、残像みたいな淡い人影が見えるような気さえした。

その人影がいる場所にここに来る途中で見つけた丸太を突き刺した。
大きなハサミを動かして、余計な枝を剪定する。
ほどなくそこに大雑把な人の形をした木の的が完成した。

二、三歩下がり、自分が作った的をじっと目を凝らす。
対象ができた事でシュミレーションがさっきよりも大分楽になった。
もう『サンダーストライク』の目に映るものは人間大の丸太ではない。
彼女はその場所にライフルを構えたロシア人スナイパーの姿を見ていた。
熱のない眼で彼方の獲物を見据える暗殺者、規則正しいその息づかいすらも感じ取れる様な気がした。
ただ、十分な情報を得られなかったその銃だけまだはおぼろげな輪郭の段階に留まっている。
自分の作った想像上のボルジャーノンとFBIの報告書を見比べながら、『サンダーストライク』は彼の射線に沿って歩き出した。

それから十五分ほど立った後、『サンダーストライク』はボルジャーノンが獲物を仕留めたその現場にたどり着いた。
二匹の牡鹿の死を示すものはここ数日の間に自然の掃除屋たちが綺麗に片付けてしまった。

しかし、近くにあった一本の松の木に信じがたい狙撃の痕跡が残されていた。
弾丸は二匹の獣の命を奪っただけでは気がすまなかったらしい。
松の木をほとんど貫通し、着弾の衝撃で太い木の幹を半ばへし折っていた。
木の肌にこびりついた黒い樹液がまるで乾き掛けの血痕のように見えた。

凄まじい威力だった。
明らかに五十口径対物狙撃銃のそれを遥かに凌いでいる。
こんなもので撃たれたら、人間の体など一撃で真っ二つになるんじゃないだろうか?
持って来たカメラに似た光学測量計で目印に置いた木の的までの距離を測る。
結果は千八百二十八ヤード(約二キロ)。
山荘の主人の言葉に誤りはなかったわけだ。

その場の光景を目に焼き付けてまた歩き出す。
霜柱を踏み潰しながら、自分の中にボルジャーノンの思考を再現しようとした。

手には銃、彼方には獲物、

  ――その時、奴は何を考えたか?

スコープを覗き、引き金に指を掛け、

  ――その時、奴は何を思ったか?

炸裂する薬莢、ぶれる視界、射線の先で散華する命。

  ――その時、奴は何を感じたのか?

一つの結論がするりと頭に浮かんだ。
答えは無だ。
恐らくボルジャーノンは何も感じていない。

千八百ヤードの狙撃も、三匹の鹿の死も、あのロシア人にとってただの通過点に過ぎない。
人が無自覚に階段を昇るように、達成感すら感じていないだろう。
奴が満足感を得られるのはただ一つ、ターゲットの人間の命を吹き飛ばしたその時だけだ。

正しく天性の殺人者。
食事をするように、酒を飲むように殺人を愉しむ。
その異常な感性が前途有望な若者をプロの狙撃屋などと言う薄暗い道へと導いたのだろうか?

自分が見つけた事実を繰り返し吟味しながら彼女は歩く。
気付けば、木製の標的から既に二千三百ヤード(約二・五キロ)も離れた場所にたどり着いていた。
かつてスナイパー、カイン・ストレンジャーがM1機関銃を狙撃銃代わりに使って、この距離から狙撃を成功させた事がある。
その伝説的な仕事でカインは彼の代名詞とも言うべき二つ名『ロングシューター』を手に入れ、その記録は今だに破られた事はない。

少なくとも公式の上では……

『サンダーストライク』はなおも歩きつづけた。
彼女が足を止めたのは、木製の的から実に二千五百六十ヤード(約二・八キロ)も離れたところであった。
コートの裾を跳ね上げ、変異した腕を冷たい外気に曝す。

降り積もった白い雪の上の小さな足跡が点々と続いているのが見える。
その足跡が伸びていく方向を目を凝らしながら、『サンダーストライク』は水銀のような滑らかな動きで膝立ち射撃の姿勢を取る。

二の腕の下に手を当てて構える。
個々の関節が一瞬で固定され、彼女の左腕は長大なライフルそのものと化した。
ぞくぞくするような感覚が背筋を走る。
あの魔法の一時が再び始まるのを感じた。

狙撃手としての『サンダーストライク』の才能。
それはあきらめる事を知らない忍耐。
あらゆる雑念を寄せ付けない集中力。
そして、何よりも自分の意識を周囲に溶け込ませる環境認識能力だ。

深意識のどこかにあるスイッチを入れ途端、彼女が『魔法』と呼ぶ作用が神経の隅々まで広がっていくのを感じた。
『サンダーストライク』の意識は精神の内側に深く沈みこみ、同時に外側に向けて一気に拡散していく。

文字通り瞬く間に彼女の心は風の中に遊び、魂は光の中に融け、肉と骨は大地そのものと化す。
スコープ越しに見える標的は小さな点でしかないが、そんなのはもはや大した事じゃない。
視覚などたくさんある情報源の一つに過ぎない。
彼女は今、文字通り全身でターゲットの存在を感じ取っていた。

肉体に残された僅かな意識が唇と舌を動かし、ケイロンから教えてもらったあの魔法の言葉を唱えた。

――
私たちは当てるために矢を放つのではない……
――
当たるから、矢を放つのだ!

その言葉の通り彼女は待った。
そして、来たっ!!
光線、重力、温度、湿度、大気の動き……
複雑この上ない複数の要素が一つに絡み合う、絶妙の『狙撃時点(スナイプ・ポイント)』!!

恐らくは一秒の半分にも満たないそのチャンス。
滑り込むように目に見えない引き金を引いた。
山歩きの間に『発電細胞(セル)』を起動させておいたおかげで、電力(パワー)はすでに十二分!
強大な電磁の弦が直径二インチ(五センチ)弾丸を音の十倍の初速ではじき出そうとした、その瞬間―――

突然、一匹の鹿が茂みの中から彼女と標的の間に跳びだしたっ!!

もうレールガンの発射プロセスを止めるには遅すぎる。
そう判断した彼女は、ハチの一羽ばたきにも満たない一瞬の間に射出孔付近の磁界を調節した。
瞬時に生み出された磁力のチューブは電磁加速された弾丸が通り過ぎる際にその速度、回転、形状を僅かに変化させる。
電磁的な魔術をかけられた弾丸は曲芸じみた軌道で大気を切り裂き、標的の前に立ちはだかる鹿の体を迂回。
その背後に姿を消した。

そして、ワンテンポ遅れて炸裂するソニックウェーブ。
弾丸の衝撃波に驚いた鹿は二本足で立ち上がり、近くの茂みに姿を消した。
『サンダーストライク』は駆け去った鹿を目で追おうとはなかった。
狙撃手の視線の先にあるものはいつでも撃つべきターゲットだけ!
しかし、鹿が逃げて開いた視界の先に人の形をした標的はなかった。
試しにスコープの角度を少し上に向けて見る。

―――
いたっ!!

標的は弾丸が命中した際に、着弾の衝撃で空中に舞い上げられていたのだ。
くるくると回転しながら宙を舞う人間もどき。
それが地面に接触する前にさらに二発の弾丸を送り込んだ。
約一秒の空白。
その後に全弾命中。
すでに半分ぐらいの大きさになっていた丸太が完全に消し飛んだ。
後に残るのは空気摩擦で火がついた木っ端くずのシャワー。
それも白い雪原に降り注ぐと同時に完全に消滅した。

狙撃を完遂した時に感じる心地よい余韻が体を満たす。
『サンダーストライク』は自分たちの間に横たわる距離が無になるこの一瞬が好きだった。
銃と弾丸を通じてターゲットと繋がり合うその一時を愛した。
そして、言葉よりも理性よりも深い精神の領域でボルジャーノンの狙撃に対して完璧な対抗狙撃(カウンタースナイプ)を行う自信を得た。

「捕まえた・・・・・・」

口から白い湯気を吐きながら呟く。

アレクサンドル・T・ボルジャーノン、私はお前を捕まえた!


次の日の朝、『サンダーストライク』は残念がる宿の主人に別れを告げ、獲物を待ち伏せするためにニューオリンズの街へと戻って行った。

 

 

 

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