EX=Gene

 

     「射手座の矢」


            ― The Lost Arrow ―


               
Act.1:「 (いかずち)、海を渡る 」





大好きだった叔父が死んだ日、少女は彼女のただ一人の友達に会いに行った。
深夜、屋敷の人間たちが寝静まるのを待って寝室を飛び出し、友達が待つ森の空き地へと向かった。

そこは少女だけが知る秘密の園、広大な木々の大海の中に生まれた真空地帯。
月明かりに照らされた草原の中で、彼女は友達に自分の胸のうちを打ち明けた。
少女の友達、それは一丁の十字弓(クロスボウ)だった。

そのクロスボウを少女にプレゼントしたのは死んだ叔父だった。
叔父は家族の中でただ一人、彼女に優しい人間だった。
父親は少女を美しい家具の一つとしか考えていなかった。
彼女を飾り付け、高く売りつける事にしか興味がなかった。
母親は正に父親が求める美しい家具以外の何者でもなかった。
父の後を継ぐはずだった兄は大理石の彫像のように美しい少年だった。
彼は本物の石のように冷たく彼女に接した。

快楽主義者の叔父が遊び飽きた玩具を姪に与えたのは、堅物の父たちを嘲笑うためのちょっとした悪戯にすぎなかった。
大人の男性の体格に合わせて作られたクロスボウは少女の小さな手にはあまりに大きく、あまりに重過ぎた。

しかし、銃床の美しい木目に触れた時、彼女は電撃にも似た衝撃が体中を駆け巡るのを感じた。
そして、初めてクロスボウの引き金を引いた時、自分が終わりのない魔法にかかった事を知った。

間もなく、気紛れな叔父は自分が姪に与えた贈り物の事をすっかり忘れてしまった。
森の中のクロスボウと百本近い矢は少女だけの秘密になった。

来る日も、来る日も少女は隙と時間を見つけては森の空き地を訪れ、クロスボウを撃った。
弓と矢は父のように高圧的に何かを命じる事はなかった。
母のように無神経に彼女の心を踏みにじる事はなかった。
兄のように冷たく少女を無視する事もなかった。

愛情を持って整備すれば、弓矢はそれにふさわしい見返りを彼女に与えた。
少女は窒息しそうなほど窮屈な毎日でため込んだ想いをすべて美しい凶器に注ぎ込んだ。

その一途な思いに応えるように、始めの頃は見当違いの方向に飛んでいた矢は次第に的に近付いて行った。
すぐに彼女はスコープすら使わずに五十メートルの距離から一矢も外さず、的に矢を命中させる事ができるようになった。

それがどれほど驚異的な才能なのか少女は全く知らなかった。
知りたいとも思わなかった。
既に彼女にとって弓矢は道具以上の存在になっていた。
誰にも言えない想いを打ち明けられる唯一の相手。
物静かで、聞き上手な最高の友人だった。

だが、この大事な夜に限って友達は少女を裏切った。
彼女の放つ矢はすべて的を外した。
いや、少女を裏切ったのはクロスボウだけではない。
体のすべてが思い通りにならなかった。

視界は涙でかすみ、手は無残に撃ち震え、絶えず漏れる嗚咽のせいで呼吸すらままならない。
撃っても、撃っても当たらない。
得意な五十メートルでも、もっと近い三十メートルでも。
やがて的の回りに矢の草原ができた。

絶望的想いが夜の闇と共にひたひたと心に押し寄せる。
それは父親によく似た声で彼女に囁いた。
やはり、道具は道具に過ぎないのだ。
どれほど愛情を込めようと、弓は彼女の涙を拭ってくれない。
髪を撫でて慰めてくれないし、優しい言葉をかけてくれる事さえない。

だが、それでも少女は撃ち続けた。
白く細い指に血のマメができた時も、そのマメが破けた後も。
例え、絶望の囁きが本当だとしても彼女には叔父が遺してくれたクロスボウ以外に縋るものは何一つなかったのだから。

どれほど同じ事を繰り返したのだろうか?
天の月が西へ傾き始めた頃、少女は大きな温もりが自分の利き手を覆うのを感じた。
視線を傾けると、明らかに男のものと思しき指が彼女の小さなそれに重なっているのが見えた。

交じり気なしの恐怖が冷たい刃となって脳を突き刺した。
頭の中にゴシップ好きなメイドが吹き込んだケダモノ以下の行いをする男たちに関する噂が次々に蘇った。
あのメイドは少女を怖がらせるため、最後にわざと恐ろしい顔を作って、いつも同じ言葉で話を締め括った。

『気をつけてくださいよ、お嬢さま。そういう奴等は貴女みたいな綺麗な女の子が一人っきりでいるのを決して見逃しませんからね』
(ああ、どうしよう麻耶! 貴女のいうとおりになってしまったわ!)

少女は金縛りにかかったように悲鳴を上げる事さえできなくなった。
しかし――

「力を抜きなさい。そのままでは、永遠に的に当てる事はできないよ」

深く音楽的な声が彼女の頭から恐怖と混乱を半分近く拭い去った。
少女は恐る恐る後ろを振り返った。
そして、自分の中に残っているもう半分の恐怖が消え去るのを感じた。

七十歳か八十歳か、いやもしかしたらもっと年上だったのかもしれない。
彼女の背後にいた男性は酷く年老いていた。
顔は無数の皺に覆われ、髪の毛はほとんど抜け落ちていた。
『彼』がほんの少し顔の筋肉を動かすと、眼以外の表情が全て皺の中に沈み込んだように見えた。

『彼』の眼は切れ長で鋭く、鳥の嘴みたいな鉤鼻と相まって猛禽のような印象を彼女に与えた。
しかし、その青い瞳の中には少女が見た事もないような優しい光が宿っていた。
その光がすうっと細くなり、少女は『彼』が微笑んでいる事を知った。

「そう、力を抜くんだ。それから、息を整えなさい。呼吸は全ての基本。だから、とても大事なんだよ」

少女は肺の中に残っていた酸素を全て費やして、辛うじて短い言葉を搾り出した。

「あなたは、だれ?」

老人は少し考え込む様子を見せた後に彼女の問いに答えた。

……ケイロン。そう、ケイロンとでも呼んでおくれ。さあ、何時まで私のほうを見ているんだい、おちびさん。こっちには的なんかないよ」

一瞬迷ったが、結局少女は『彼』に、ケイロンに言われたとおり視線をゆっくりと的のほうに向けていった。
ケイロンと名乗る老人は口元に皺深い微笑を浮かべると、木の葉を擦り合せたような声で少女の耳元に囁きかけた。

「大きく息を吸って、吐いて。なるべく自然な呼吸を目指しなさい。そう、その調子だ。それができたら、次は自分の内なる声に耳を傾けるのだ。悲しみや怒りや言葉にならないような深い感情に。だけど、決して彼らを否定してはいけないよ。毎朝鏡を見るように、自分の一番醜く弱い部分と向き合うのだ」

無意識の内に少女は老人の呼吸を真似していた。
そして、本当に手足のコントロールが戻ってきた事に驚いた。
消えたと思った魔法が戻ってきたのだ!
震えや嗚咽が止まるにしたがって、再び友達の声が聞こえ始めた。
木でできた銃床が手の中で静かに脈打ち始めたように感じた。

ああ、そうだ。
逆だったのだ。
やっぱり友達は私を裏切っていなかった。
むしろ、私の方が―――

「すばらしい! 己の声を聞き、朋友の声を聞け、それこそ私が次に君に教えようとしていた事だ。それができたのなら、今度はもっと難しい事に挑戦して見よう。内側の声を把握した後は、外の世界の声に耳を傾ける番だ。風の声を聞き、重力の遠吠えを感じ、月の光の歌をその眼で捉えなさい。そして、全て重なり合う一瞬を待つのだ。よく覚えておきなさい。―――私たちは当てるために矢を放つのではない。当たるから矢を放つのだ!

惜しみない賞賛の声を受けて、少女の自尊心が彼女の心の中を心地よく擽った。
少女は老人に言われたとおり耳や眼で、そして肌で外界の情報を収集した。
そして気付いた。
世界が思っていたよりもはるかに多くの神秘と秘密を宿していた事に。
広大な世界を前にして、少女は自分の悩みが相対的に小さく縮んでいくのを感じた。

叔父を亡くした喪失感がゆっくりと退き、その後に白い無としか呼びようのないものが宿った。
その無の中で複数の曲線が踊っていた。
曲線が現すのは風の方向、重力による弾道の変化、そして月明かりの陰影。
全ての曲線が一つに重なり合う瞬間をじっと待った。
間もなくその時が訪れた。

どんな魔術を使ったのか。
ケイロンもまた彼女の心を読んだように耳元に囁きかけた。

―――そう、今だ! 引き金を引きなさい!」

少女は老人に言われたとおり、引き金を引き―――

そして、それから十一年の間、彼女はただの一度も的を外した事はなかった。



    



―――
今、自分の目の前にいる男は、月夜の森で出会ったあの老人にどこか似たところがある。

もちろん、細部を一つ一つ見比べれば、二人はあまり似ていなかった。
それどころか対照的ですらあった。
老人、ケイロンは怯えた少女の心を解きほぐすような上品で柔らかな雰囲気を身に纏っていた。
それに対して、目の前の男は体全体から人を突き放すような刺々しい気配を放出している。
ケイロンの口はいつも何か面白い冗談を考えているみたいな小さく微笑んでいたが、男の口は堅く結ばれ、生まれてこの方笑った事すら無さそうだった。
何より男の小さく凶暴そうな眼にはケイロンの青い瞳に宿っていたあの優しげな光が致命的に欠けていた。
ケイロンは年老いた鷹のような老人だった。
しかし、目の前の男は血に餓えた人食い鮫のように見えた。

それでも不思議な事に全ての要素を足してあわせると、何故か人種も年齢も体格も違う二人の男に共通する何かの面影が垣間見えた。
壁一杯の大きなスクリーンに映し出された男の横顔を見ながら、電撃 (サンダーストライク)はそんな事を取りとめもなく考えた。

アレクサンドル・T・ボルジャーノン! ミドルネームのTが何の略かは分かっていない。諸君、よく目に焼き付けておきたまえ! これが今回のターゲットの姿だ」

スクリーンの隣りに立っていた壮年の男がレザーポインターで男の目のあたりを指した。
産着にダークスーツを着ていたようなこの人物は、誇り高き大統領警護班、シークレットサービスの上級要員、エイブラハム・アームストロングだ。

「この写真は、ルイジアナの玉突き事故の現場で偶然撮影されたものだ。FBIテロ活動対策本部長であるエルマーがこれまた神の御意志によりこの男の存在に目を留め、彼の優秀なスタッフたちが凶悪犯の正体を突き止めた。この場を借りてエルマーに感謝を述べよう! ありがとう、エルマー!」

小柄なスピッツ犬のような顔をした男が立ち上がり、観衆の拍手を得意げな顔で受け止めた。
『サンダーストライク』だけは拍手に参加しなかった。
彼女の左腕は手長海老のはさみのように変異していたので、拍手ができなかったのだ。

アームストロングはその名前に相応しい力強い腕を上げて拍手を鎮めた。
ぐるりと観衆を見渡し、張りのある良く通る声で言った。

「さて、次にこのボルジャーノン氏がどれほど危険な人物で、我々にとっていかに価値のある獲物なのか説明しよう。諸君、まずはこれを見たまえ!」

アームストロングはリモコンを使って、プロジェクターを操作した。
スクリーンから苦虫を噛み潰したような男の顔が消え、代わりに彼が歴史の上に遺した足跡が写し出された。

部屋の中にいるほとんどの人間が息を呑んだ。
『サンダーストライク』ですら、微かに眼を見開いた。
ボルジャーノンの血塗れのキャリアはまさに驚嘆に値するものだった。

アレクサンドル・T・ボルジャーノン。
現在、推定四十歳と思われるプロのテロリストの名が始めて公の場で知れ渡ったのは現在のロシアがまだソビエト連邦と呼ばれていた頃の事だった。
始めて参加したソ連と東欧の射撃大会を抜群の成績で優勝。
それまで無名だった青年の名は綺羅星のごとくスポーツ射撃界に光り輝いた。

だが、この時のボルジャーノンはまだテロリストでもなければ人殺しでもなかった。
彼の名が赤く禍々しい輝きを帯びるようになるのは、ソビエト軍に入隊してからだった。
ソビエト海軍歩兵部隊で訓練を受けていたボルジャーノンは間もなく、その優秀な射撃能力を認められ、精鋭部隊スペツナズに編入された。

そして、一九八四年から一九九〇年までアフガニスタン戦争に参戦。
戦場と言う名の桧舞台を得て、ボルジャーノンの天才は昏く、艶やかに開花した。

……三百五十人。もう一度言おうか? 三百五十人だ! ボルジャーノンがアフガニスタンにいた間、それだけの人間が奴のドラグノフ狙撃銃の犠牲になった。しかも、これは公式の記録だけだ。実際に殺した人数ははるかに多いだろう。ソ連が崩壊した後、ボルジャーノンは軍を除隊してプロの狙撃屋として独立した。今日に至るまで、奴が関わったとされる暗殺事件は可能性が高いものだけで百八十件。その中にはチェチェン過激派の指導者を一マイル(約千六百メートル)の距離から狙い撃ちにした事件も含まれている。まさに、我が国が誇る伝説的スナイパー、カイン・ジ・ロングシューターに匹敵する狙撃手と言えるだろう。
そして、我等がCIAの同志はこの天性の殺人者がイスラム系過激派の人間と接触した事を伝えてくれた。エルマーの優秀な部下たちはボルジャーノンが、トム・スミスという偽名を使って、ルイジアナ州の山荘で狙撃の予備練習を行っていた事を探り出している。奴はルイジアナ洲にいるのだ! 五日後に合衆国大統領が演説を行うであろう、このルイジアナ州、ニューオリンズの近くに!」

アームストロングは芝居がかった様子で瞼を閉じ、自分の言葉がゆっくりと聴衆に染み渡っていくのを待った。
再び瞼を開いた時、その眼は燃えるような野心の光を放っていた。

「これで分かっただろう。ボルジャーノンがどれほど危険な男だと言う事が。そして、彼を生きたまま捕まえる事が合衆国にとって、また我々のキャリアにとってどれほど有益な事か分かってもらえたと思う。狩りに値する獲物がここにいるのだ! 命をかけるに値する戦いがここにあるのだ!」

アームストロングが言葉を切ると、ざわめきが熱病のようにブリーフィングルームの隅々まで染み渡った。
至るところでやり取りされる熱っぽく、期待に満ちた囁き声。
興奮した人間たちに取り囲まれて、『サンダーストライク』は酷い疎外感を味わっていた。

『サンダーストライク』は合衆国の人間ではない。
もちろん、シークレットサービスでもなければ、FBIのスタッフですらない。
だから、彼女は回りの人間たちが夢中になっているようなキャリアアップとは無縁の存在だった。
何より彼女はこの部屋の中に数少ない、『強化人類(イクステンデット)』の一人だった。

異国、異能の者である『サンダーストライク』が大統領警護のブリーフィングに参加している背景には、『イクステンデット』を取り囲む複雑な国際政治の駆け引きがあった。

二年前、人間を異形の超人に変貌させるウィルスEX=Geneの存在が始めて世界に知られるようになった。
当時、もっともこの病原体の影響を受けたのが、東欧の小国ドラーシャ共和国とアメリカ軍が駐在していたイラクであった。

EX=Gene
を発症させて『イクステンデット』になった人間はほぼ例外なく社会的に孤立する。
自分の居場所を失った人間は、異能者であるか否かを問わず過激派の思想に染まりやすい。
中東の異能者達は『聖戦(ジ・ハード)の戦士』となるべく、先を争ってテロ活動に身を投じた。
イスラム過激派もまた『イクステンデット』たちを神から悪魔退治のための力を授けられた聖戦士だと位置付け、積極的に彼らを受け入れた。
悪魔というのは、言うまでもなくアメリカ駐留軍とその祖国の事だ。

それに対して、アメリカでは大統領の側近の一人が公の場で「EX=Geneに感染するものは、神への信心が足りない」と大失言をしてしまった結果、『イクステンデット』たちの現政権に対する支持は地に落ち、米軍は思ったように超人兵士達を揃える事ができなかった。

現在、『イクステンデット』に限って言えば、米軍とイスラム過激派の勢力は完全に逆転している。
イラクは米軍を対象にしたあらゆるEX能力の見本市と化した。
毎週、ダースの単位で死者がはじき出され、それ以上の数の負傷者がアメリカ本土に送り返されている。

合衆国では、イラクの惨状が伝わる度にタカ派の上議院議員が「あのフリークスどもを収容所へ送り込め!」と無茶な要求を繰り返し、それを耳にした異能者達のコミュニティがますます政府に対して態度を硬化するという悪循環が二年近く繰り返されてきた。

大統領はそんな合衆国の現状に長い間、苦慮していた。
そしてある日、彼はトイレの中で妙案を思い付く。

そうだ!
期間限定で『イクステンデット』たちに自分の身辺警護を任せて見よう。
イクスどもを信頼している事を示せば、奴らの支持率を集める事ができるかもしれない。
今朝、腕利きのスナイパーが自分の命を狙っているという話を聞いたような覚えもあるし、ちょうど良いじゃないか!

大統領の突飛な思い付きは綿密な警護計画を立てていたシークレットサービスを大いに困惑させた。
そして、護衛班以上にこの提案に頭を痛めたのは、合衆国の『イクステンデット』の代表者たちだった。

大統領の申し入れである以上、一番優秀な人材を送るしかない。
しかし、大統領の身に何かあった時、縄張りを侵されたFBIやシークレットサービスたちが誰をスケープゴートにするか目に見えている。

大統領の依頼を断る事はできないが、万が一間違いがあった時に責任を押し付けられるのもごめんだ。
板挟みになった代表者はふと異国にいる知人の名前を思い出した。
妖香の魔女の異名を取る『イクステンデット』、華神(フローラ)の名前を。

かくして、日本が誇る世界有数の狙撃手『サンダーストライク』がFBIのニューオリンズ支局で大統領の護衛に関するブリーフィングに参加する事になったのである。

(『フローラ』の嘘つき! 何がちょっと刺激的で、報酬が良くて、アメリカの有力者に恩が売れる上に観光もできるお得な仕事よ。こんなのただの茶番劇じゃない!)

その日、『サンダーストライク』は酷くご機嫌斜めだった。
パートナーの覇王(タイラント)が傍らにいないというのがその理由の一つだった。

『タイラント』は『サンダーストライク』の夫であるだけではなく、狙撃手である彼女の観測手も勤めている。
狙撃手は孤独な職業だと思われがちだが、本来は標的までの距離や風速などを計る観測手と二人で行う仕事だ。
『タイラント』は彼女が知る限りもっとも優秀な観測手だった。

しかし、さすがに手柄を全て横取りされては堪らないと思ったのか。
米国側の『イクステンデット』は『タイラント』の入国を許さなかった。
代わり彼らは新しい観測手を『サンダーストライク』に提供した。
今、彼女の隣りで座っているインド系の女性、蛇神(ヴリドラ)がその観測手だ。

『ヴリドラ』は大気の動きを計る事に長け、ミクロ単位の距離感覚を持つEX=Sensitiveだ。
能力だけ見れば彼女は理想的な観測手と言える。
しかし、パートナーシップは機械のようにスペックだけで決まるものではない。
何より、新婚一年の新妻を夫から引き離すとはアメリカ人たちは何を考えているんだろ?

仕事の内容自体も『サンダーストライク』のストレスの原因になっていた。
アレクサンドル・T・ボルジャーノンは確かにそそられる獲物だ。
しかし、ボルジャーノンはスナイパーとしてもっとも大切なカモフラージュに失敗した。
隠れ蓑を失った狙撃手は殻の無い蟹のように無防備な存在。
今この部屋にいる黒服のコックたちはその蟹の美味しい料理法を相談している真っ最中だ。
しかし、その料理が『サンダーストライク』たちの口に届くことは決してないだろう。

今回の作戦に置ける彼女の役割は徹頭徹尾、『世界最高のスナイパー』と言う名のお飾りなのだ。
尊重されている振りをされるのは、全く尊重されていない事よりも質が悪い。
アームストロングたちの態度は狙撃手としての『サンダーストライク』の誇りを酷く傷つけた。

他に腹に据えかねる事はたくさんあったが、彼女は何とかそれを我慢した。
忍耐こそは狙撃手の美徳。
そして、彼女は子供の頃から我慢する事に慣れていた。
『サンダーストライク』の癇癪が爆発したのはブリーフィングが終わりに差し掛かった頃の事だった。

最後にアームストロングは観衆に質問がないか聞いた。
『サンダーストライク』が手を上げた。
アームストロングは彼女が先に手を上げたにも関わらず、他の人間の質問に答えた。
次も、その次も同じ事を繰り返した。
そして他に誰一人、手を上げる者がいなくなった後、ようやく勿体ぶった様子で『サンダーストライク』の方に向き直り、

「あぁ、では最後に……これはなんとお呼びすれば良いのかな?」

わざとらしく目を細めて、彼女の本名が記されている名札を覗き込んで言った。
その物言いが気に入らなかった彼女は『ヴリドラ』が紹介する前に自分から名乗りを上げた。

「『サンダーストライク』です、閣下(サー)。日本語の名前が発音しづらいのでしたら、どうぞコードネームでお呼びください」

まさか日本人がいきなり完璧なクィーンズイングリッシュを使うとは思わなかったのだろう。
意表を着かれたアームストロングの顔はかなりの見物だった。
その間抜けな表情があまりに面白くて、『サンダーストライク』は後少しで花嫁修行と称して自分を無理やり英国に留学させた父に感謝しそうになった。

自分がシークレットサービスの上級要員に相応しくない顔をしている事に気付いたアームストロングが慌てて取り繕うように言った。

「それでは、ミス・サンダー。質問は何かね?」
「はい、閣下。対抗狙撃(カウンター・スナイプ)の準備のためにボルジャーノンが泊まったという山荘の調査をしたいと思います。連絡先と交通手段を提供していただけますか?」

アームストロングは呆れた顔でデスクの上に積み重なった紙の束を叩いた。

「君はエルマーの部下が纏めたレポートを読まなかったのかね?」

まるで覚えの悪い小学生を諭すような態度だった。
『サンダーストライク』は抑制されてきた反抗心がむくむくと頭をもたげるのを感じた。

「渡されたレポートには目を通しました。限られた時間の中で作られた報告書にしてはよく纏まっていたと思います。しかし、このレポートを作成した人間はプロファイリングの専門家であるかもしれませんが、狙撃手ではありません。そして、現場でボルジャーノンに対峙するのは私なのです」

アームストロングは彼女の言葉を鼻で笑い飛ばした。

「現場で容疑者と対決するのは君だけじゃないぞ。そして言わせてもらえば、現場で君の出番はほとんど無いはずだ。我々はボルジャーノンにスコープで大統領の頭を盗み見するような隙を与えるつもりは無い。想定されるスナイプポイントにSWATの優秀な隊員を待機させ、ボルジャーノンが到着した瞬間、奴を逮捕させるつもりだ」
「しかし、想定した場所にボルジャーノンが現れない可能性もあります。奴の足跡を調べる許可をいただければ、より完璧に不測の事態に備える事ができます。少なくとも残り五日間、又聞きの情報を頼りに対抗狙撃の訓練をするよりも有益だと思いますが?」

アームストロングはピンク色の皮膚を真っ赤に染めて言った。

「ミス・サンダーっ! 若い君には分かりづらいかもしれないが、大統領警護というのはチームで行う仕事なんだ。途中で部下の一人が急に観光をしたいと言い出したからといって、それを一々許可するわけには行かん。そんな事をしたら、チームの規律が目茶苦茶になってしまう!」

何故この老人はこうも自分に噛み付いて来るのだろう? と、『サンダーストライク』は考えた。
自分が彼の孫と同い年のように見える上に、髪の毛を黒と黄色の危険物柄に染めているせいだろうか?
それともこの事務所にいる人間全員を五秒でミートソースに変えられる生体レールガンを持っているせいだろうか?

だが、どんな理由で自分を嫌っているのあれ、『サンダーストライク』も同じぐらいアームストロングを嫌い抜いていた。
人種こそ違うが、アームストロングは彼女がこの世で一番嫌悪している父親にそっくりだった。

……お言葉ですが、閣下。私は貴方の部下では有りません。私をここに招いたのも貴方では有りません。そして、本音を言えば私はこの国に来たく等なかった!」

服の袖を引っ張られる感触がした。
振り返ると『ヴリドラ』が心配そうな顔でこっちを見上げている。
自分が明らかに言い過ぎていると『サンダーストライク』も感じていた。
そして、今喉の奥から出かかっている言葉を口にすれば、アメリカでの唯一の味方を無くすかもしれないという事も分かっていた。
だが、我慢の限界に達していた彼女はもう自分を押さる事ができなかった。
『サンダーストライク』は心の底からあったまに来ていたのだ!

「私が望んでいる事は、自分に与えられた仕事を全うする事だけだ。貴方たちには私の仕事に協力をする義務はあっても、その逆の行動を取る権限はない! 私の仕事の邪魔をしたかったら、私をここに招いた人物、この国の最高責任者に掛け合いなさい! そして、それもできないというのならば、私は即刻自分の国に帰らせていただきます!

憤りに任せて言葉を吐き出した後、誰も彼女に反論する者はいなかった。
周囲に広がる沈黙から、『サンダーストライク』は自分がこの国で本当に孤立した事を知った。

 

 

 

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